The Blue Envelope #61
劇団不労社「サイキック・サイファー」に寄せて
#ITBS_text
劇団不労社による第15回せんがわ劇場演劇コンクール オーディエンス賞受賞作「サイキック・サイファー」の東西2都市ツアー公演の劇伴を担当させて頂いた。例によって色々おもしろかったので感想を書いておく。
そもそも
不労社への音楽での協力は2回目になる。前回は演劇に関わることが初めてであり、おもしろすぎたので2エントリ(前編/後編)も書いた。西田くんに「サイファーを題材にした過去作品の再演のためにビートを作ってくれ」くらいの温度感で言われ、2つ返事でOKした。結果的には、ビートを納品して終わりではなく、ちゃんと劇伴めいたものに着地した。
楽曲ども
とりあえずメインのビートとしてブーンバップを1曲作った。UFOやUMA、心霊写真などを取り扱う平成のTVバラエティの質感と、90sヒップホップのスモーキーさを混ぜた曲を作りたく、Sci-fiなシンセサウンドと生楽器のチョップでトラックを組みつつ、割と大音量で再生されることを信用しサブベースで引っ張る展開にした。
作中はさまざまな変奏verが使われる。どれが原曲とは特に考えていないが、この動画のverは割と最初に作ったままである。
イントロでトランシーバー越しのおっさんの語りではじめたいというアイディアから文言の作文もした。おれもサイファーに参加するかーと思って割と真面目に押韻の検討もし、”And you”と”the truth”で落とす構成に。
“He loses himself in those internet conspiracies, as though it might fill the hollow place in him. And you — what could you ever know of the truth?”
(現実の空虚を埋めるように、陰謀渦まくインターネットの情報にのめり込む。 お前に何が真実かわかんの?)
西田くんとのコミュニケーションの中でtravisとplayboiのこの曲の話になり、trap〜rageっぽい曲も何曲か作った。感情が漏れ出る感じのアナロジーとしてシンセのスタブとクリッピングを使うのは好みである。普段はやらないくらい素直にジャンルの作法に則ったトラック、ウワモノに過剰にビットクラッシュしたものなど色々作った。
ラップ行為
単純に言ってしまえば”普段ラップをしないような人間”がマン振りでスピットする、というのがこの作品の核である。”普段ラップをしないような人間”は作中の登場人物でありそしてそもそもラッパーではない俳優自身である。(後述するが、この二重性は自分の最大の関心ごとであった。)
ラップというアートフォームは、あまりにもパーソナリティの発露そのものでありすぎる。ラップがクールなやつは、人間としてもクールである。そう言い切ってしまって構わないと思う。おもしろいラップをするためにはおもしろい人間でなければいけない。表現様式がその人自身と密接すぎる。それがラップの面白さであり、ややこしさである。そして演劇も、まったく同じなのである。演じるという行為がその人自身と密接すぎるのが演劇の面白さであり、ややこしさである。このラップと演劇の、あまりにパーソナリティと密接であるという部分にフィーチャーし、そのシナジーを活用しようとしたのは、不労社の慧眼である。
出役と照れ
出役の人間がまず最初に乗り越えなければいけない難関が”堂々とやる”ことである。もっと平たくいうと、”照れない”こととも言える。自分はこれがどうも苦手である。なにをするにも、人前で照れずにいるのが難しい。音楽というフォーマットを好んでいるのは、楽曲という間接物を介することで、あまりにも自分自身そのものであることから離れることができるからである。人が勝手に曲を聴く。勝手に行われるからおれは照れようがない。
演劇はそうもいかない。演者がセリフをいうたびに照れ、「なんちてw」みたいな顔をされてはたまらない。ラップもそうである。内容以前に、照れているうちは土俵に上がることすらできない。長く演劇をやっている人間は、人前で、台本のセリフを、大きな声で任意の感情を込め発声することができる。自分が知る限り、まともな俳優でそこがクリアできていない人間はいない。不労社のメンバーもみな当たり前のようにそれをする。それは一般人にはなかなかできない特殊技能である。
ここに、演劇とラップのシナジーが見て取れる。身も蓋もない話、俳優がラップをさせると、照れずに大きい声でできるのである。これが自分にとって感動的なことであった。稽古場に遊びに行き、練習の様子を眺めていても、当たり前のように、全員がガチのマジでラップをしている。技術以前に、照れずに、ガチのマジで大声が出せることがスタート地点である。これは誰にでもできることではなく、そしてここにいる皆はとうの昔にクリア済みである。これは俳優の役得であるし、幸せなことであろう。俳優であることは、ラップをする上でこの上ないアドバンテージになるのだ。
お前は誰なのか?
本公演は、不労社のメンバーのマイクリレーから始まる。開幕のそれは一応”俳優自身”として実施される。
ある日の稽古中の印象深いやり取りとして、「そのラップは俳優自身としてやるべきか?」というディスカッションが行われていた。不労社のメンバーである永淵大河が、荷車ケンシロウが、むらたちあきが、ステージで、俳優としてラップするとき、それは誰がラップしていることになるのであろうか?
要するにこれは、あくまで1人の人間の矢沢永吉として歌うか、スターYAZAWAとして歌うか、みたいな話である。in the blue shirtとはおれの音楽名義であり、有村崚自身であるが、じゃあ寸分違わずin the blue shirt=有村崚であるかといわれるとそうではない。
コロナ禍の配信イベントで頭がおかしくなってやった上記の動画がその典型であるが、普段からおれはこんなテンションで生きてはいない。正直この動画は共感性羞恥でもはや自分では見ていられない。気持ちの問題ではあるが、in the blue shirtとして何かをするときは、in the blue shirtとしてやる。それはおれであるが、ありのままのおれではない、誇張されたものである。しかし同時に、おれよりもおれらしい。この事実が、自分の興味を常に惹き続けているのだ。
プロレスには台本があるからフェイク、なんて野暮なことをいう人がいるが、仮にそうだったとして、名試合の価値が毀損されることはない。ガチのマジで与えられたロールをプレイできたとき、それはリアルとなり、観るものを感動させることができる。逆に、ブレイキングダウンで素人に殴り合いさせる際は、本気でシバきあうわけであり、筋書きなどなく、最初から極めてリアルであるが、それだけではピースが欠けており、試合前に誇張された煽り合いというフェイクをすることでそれは完成する。フィクションをガチる、あるいはリアルにフィクションを導入する、そのどちらのルートでも”マジ”を生むことが可能である。
この演劇において、作中の登場人物は、失恋のショックを契機に、いわゆる陰謀論的なものにのめり込む。そして、ガチのマジでラップをする。それはあまりにもその人そのもののリアルである。しかしそれは台本に書かれたものでもあり、フィクションである。フェイクをガチる、リアルをフィクションとして実施する。筋書き通りに、それでいて全身全霊で、1俳優が登場人物としてラップをしたときに、そいつは一体誰なのであろうか?そしてその立ち上がる感動は誰のものなのだろう?
考えてみれば、陰謀論にのめり込む人間がやっていることは、俳優がやっていることと構造的に同じである。与えられた筋書きを、真剣にトレースする。フィクションをガチる力それ自体は、人間の本質的な能力であり、そして極めて大切なことである、一方、俳優は終演後に役を脱げるが、陰謀論者のそれはコントロールが困難である。それが祝福になるか呪いになるかは、手綱を握れているかどうかにかかっている。
陰謀論という(笑えないほどに)ホットなテーマが、出役としての矢沢/YAZAWA問題にリンクする。in the blue shirtは誇張されたおれであり、そしておれ自身よりも本当の自分っぽい。陰謀論の駆動力は実に本質的である。
演劇とは自らをパペットとしたお人形劇である。名義を立ててソロで音楽をやるのもお人形遊びの変形である。しかしながら、祈りを込めて操作されたマリオネットは、いずれ、自らの意思で歩き出すのだ。

