The Blue Envelope #18
#ITBS_TEST
演劇に関する雑文
演劇にがっつりコミットしたことは自分にとって明らかにポジティブな影響があった。学んだことや、無知すぎてわかっていなかったことも含めてメモを書いておく。素人の無邪気な感想である。書いてて思ったが、大体が音楽とのフォーマット上の性質の差分の話ばっかである。
勘違い
前回も書いたが、今回の戯曲「タイムズ」はわかりやすく取り扱いに注意しないといけない部分があった。昭和-平成初期を想起させる固有名詞の数々と、世代差によるムードの不一致である。あえて人ごとみたいに書くが、ここをどう演出するか、というのが今回の興味の対象であった。
ここで、まずいきなり”既存の戯曲を演出する”という行為に対しての自分の認識が大きくズレていたことが露呈した。
アニメにおいて原作ファンが改変に対してブチギレる、なんてことは枚挙にいとまがないが、我々がエンタメ分野で想起するようなアニメ/ドラマ/映画に対しての原作の関係性のイメージで、戯曲とその上演を考えるのは悪手である。基本的には、戯曲は、そのまま、演じられる前提であるからである。法律の言葉で言うと同一性保持権(著作者人格権)を有しているという話になる。
例えば、ありえないぐらいお下劣なセリフがあり、それをなんらかの配慮で一部表現を変えたいなと思ったとしても、それも改変であるので、それを許すかは戯曲の著作者に委ねられる(日本劇作家協会のモデル契約はいずれも「原則、無断改変不可」を明記している)。上演条件は作品によってまちまちであるが、翻案権を持ってして、原作から登場キャラや時代背景、結末すら変えることも往々にしてあるエンタメ作品とは決定的に異なる。
この感じの理解が最初にぶつかった壁である。戯曲を上演する、という行為を、既存曲をカバーするようなもんですよ、とか、ジャズのスタンダードをさまざまなプレイヤーが自由な解釈で演奏しているのと同じですよ、とか、音楽のアナロジーで捉えようとしてしまう節があったが、いまいち筋が悪かったのであった。
恥ずかしい話、当初はジャズやクラシックの譜面とその演奏者の関係はなんか違うなあ、じゃあカバーみたいなもんか……くらいの認識であった。戯曲の演出が、OASISの名曲を独自解釈で和訳したり、RYDEENに歌詞をつけたりといったレベルの自由さのもとにあると思っていたのだ。もちろん演出は自由にできる。が、”演出は自由にできる”ということが指すものを自分は少しはき違えていた。
パンフレットにも以下のように書かれている。この感覚を持とうと思うと、ある程度の鑑賞リテラシーが求められるというのは事実である。
すでに書かれた戯曲を上演することは、戯曲の時間と現在の時間とを、モラルや常識、価値観の変遷、問題意識の変化、当時予見された未来など、様々なギャップを浮かび上がらせます。そのギャップは必然的に、快不快や清濁、善悪が混合した表現を呼び起こすでしょう。そしてそこでは同時に、これまで大きくも未だに変化していないものごとも、みることができます。
本公演では、上演を通して、微視的/巨視的に「これまで」と「これから」を、観客とともに眼差すことを試みます。
2015年の佐藤信氏演出verと今回2025年の西田verは全然違う。どちらも自由のもとで演出しているわけであるが、触れる変数には、かなり演劇というフォーマットの特殊性があることを理解した。
生で演る
生身の人間がその場で演じる、というその文字通りの生々しさが演劇の魅力であることは間違いない。裏を返すと、生で見ない限りよくわからないとも言える。そしてこれが、自分にとっての演劇への参入障壁になっていた。宝塚か劇団四季か、それくらいの規模の、しかもミュージカルみたいなやつしかちゃんと見たことがない、そういった人間は自分だけではないはずだ。
音楽もライブ至上主義みたいなムードがないわけではないが、自分のような家で聴いて楽しむのをよしとする録音物LOVERも少なくない。演劇分野においても、戯曲やシナリオを単体で”読む作品”として楽しむこともできるが、“上演の設計図”でもあるという二重性が常にある。ライブ演奏を一切意図しない音楽作品なんていくらでもある。一方、上演をどれくらい意識するかはともかく、客席という固定視点を起点に紡がれる戯曲というフォーマットは、上記の二重性からはどうやっても逃れられない。この生さの重要度が高すぎることを、演劇に関わる人がどう捉えているのかはまだ掴みきれていないので、いろんな人に聞いてみたいと思っている。
複数人で演る
音楽分野で個人プレイでここまで生存してしまった自分にとって、複数人でやっている、ということはそれだけで尊敬の対象であった。今回の「タイムズ」は既存の劇団の固定メンバーではなく、オーディションによって俳優が選ばれた。要するにチームビルディングからのスタートであった。おれはそのビルティング・プロセスを遠目に眺めるだけであったが、日に日にチームとして良くなっていく様子を見ることができた。これはひとえに西田くんの努力と、集められたメンバーの気立てのよさである。善良な人間の集団が3ヶ月かけて良いチームになっていく、これを見れただけでも参加した甲斐があったというものである。
地方で演る
地方で活動をする、という点でも色々考えさせられた。日本において、資本的な側面のみを考えると、基本的に創作活動は東京でやった方がいい。そのあまりの人口密度の高さからかなり特殊な街であり、東京とその他ではゲームのルールがそもそも違うと言ってしまっても良いと自分は考えている。
しかし我々は東京にいない。そして全員が資本駆動でやっているわけではない。強い矜持を持ってそうしているケースもあるだろうが、ほとんどの場合は、ただ、ここに暮らしているから、ここでやっている、というだけである。
とはいえ住んでいる場所で、ただ好きにやればいい、という単純な話にはならないからややこしい。例えば、自分のケースだと、一人で制作するだけで成立するのであれば場所はどこでも構わない。ライブ演奏やDJがしたい場合は人の少なさという点でやや不利である。いわゆる広告、エンタメ、音楽業界は完全に東京中央集権で回っているので、その点でも不利である。プラマイで、総合的には結構マシである。
一方、演劇というフォーマットは客席という固定視点を抜きには成立しない。そもそも儲かる儲からない以前に客の存在が意図されているのである。メンバーも集めないといけない。脚本×俳優×演出×美術×音響、総合芸術であり、裏方だけでも要求事項は多い。全要素で、過不足なく求めるレベルの頭数を揃えるにはどうしたら?さらにいうと場所も必要である。あなたの住んでいる街に小劇場はどれくらいある?
演劇を続けることそれ自体が地方でハードモードであることはかなりはっきりしている。ど田舎に行って、若者に小劇場にいったことがあるかと尋ねて何人が首を縦に振るだろうか。(京都は、学生が山ほどいるというその一点でかなりマシである。デカい大学には演劇の団体が必ずある。)
お金を稼げそうだから、人気者になれそうだから、といった理由で俳優を志すことは悪いことではないが、それだけでは地方では続けられない。今回は地方在住の俳優の方が多かった。好きものの集まりであることが確定している。そんな人がわざわざ京都に集まって一つの演目の完成を目指す。なんとなくの心地よさはここに立脚しているように思えた。どういう気持ちでここまで活動をやってきたかはそれぞれ異なるだろうが、可能であるなら全員の話を聞いてみたいと思う。
正しく演る
京都芸術センターで活動する上で、稽古の一般公開日が設けられた。公の施設であるから、興味がある人を積極的に取り入れたり、後進を育成したりする意図があるんだなくらいの認識であったが、スタッフの方から「パワハラを防ぐ目的があるんです」という話を伺った。きんたまが萎んでいくような気持ちになった。
演劇において、上演のためにはある程度の期間クローズドな状態で稽古をする必要がある。そしてやりたいことのイメージは演出家の頭の中にのみある状態からスタートし、それを具現化していく。演出は様々な手段を用いて意図を演者に伝えるわけであるが、抽象イメージの伝達はそもそも困難である上、やっていく上でなんか思ってたんと違うなあと進路変更する場合もある。あまり適切な例えではないが、演者からすると、正解のわからないクイズへの回答を、演技という身体の操作を持ってしてしなければならない状態とも言える。なんて難易度が高い!さらにいうと、演出-演者間で権力勾配があるケースもままある。ちょうど広陵高校の話題でもちきりであったタイミングであったわけだが、こんなシチュエーションで、演出側が意図伝達の努力を放棄して、なんでわかんねえんだこのボケナスが、と暴言を吐いたり、ぶん殴ったりするようになる可能性を完全に排除するのは確かに難しいのである。
厳しすぎる強豪校の寮で暴力が起きるのも、閉鎖的であることは原因の一つであることは間違いない。(もちろんそれだけが理由ではないが)そういった悪しき方向に進むのを施設として防止すべく、稽古の公開日を設けて、外部の風を注入しているということだった。「おめえこの業界でいられないようにしてやるぞ」みたいな脅しがどれくらい有効かはコミュニティによるが、地方においての演劇人口を考えると、あっちの界隈でダメだったからこっちに行こう、みたいなことは簡単にできなさそうである。公演日に向けて、ピリピリしていくのは当たり前である。正しくピリピリするためにシステムでできることは多い。良い取り組みであると思った。
自分らしく演る
西田くんが序盤、「どんな音楽を当てるべきかは演者が決まんないとわかんない部分が多くて・・・」みたいなことを言っていて、正直そんなことあんのかよとうっすら不安になったりしたわけであるが、最後までやってそれが本当であることを理解したのである。
自分は濱口竜介が演出論を綴った書籍『カメラの前で演じること』がめちゃくちゃ好きなのであるが、そこで散々書かれている通り、人間Aが役A’を演じる、という行為はとてもややこしいわけである。演劇というのは輪にかけて、人間A自身のパーソナリティの影響が出やすい。人間Aそのものでいるよりも、役を演じる過程で、相対的により人間Aへの理解の確度が上がるなんてことが起こりうる。なんなら演者のパーソナリティに引っ張られて演出の方向性が定まっていく。演じるという行為のヤバさがここに詰まっている。
生演技が生すぎるという話にも通ずるが、演劇ほどパーソナリティむき出しでプレイするものはこの世にそんな多くないと感じる。おれは「クリエイト・フォー・パーソナリティ」を人生のテーマにするつもりでいるが、演劇というフォーマットは考えを深める良いヒントになるということがわかった。演劇を本気でやると、分かりわすく、自分らしさに衝突することになる。それがわかれてよかった!