The Blue Envelope #8
#C4P_demo
前回からの続きです。
出てくる曲などをざっくりプレイリストにしています。
Be 玄人(中編)
当時、MySpaceというサイトに音楽をアップロードするカルチャーがあり、それに夢中になった。ギターの宅録と、よくわからない電子音楽がたくさん聴けた。ラジカセに吹き込まれた簡易なデモテープのようなものから、今すぐCDにしてくれと思うようなものまでが並列に存在していたが、それが妙に心地よかったのをよく覚えている。音楽オタクはlast.fmで聴いている音楽をシェアし、個人ブログでdigの成果を開帳した。どんなやつがその音楽を作っているのか、どんなやつがその記事を書いているのか、それを想像するのが楽しかった。クールでありたいという欲と、P2Pでのファイル共有をはじめとする00年代特有のインターネット・アナーキズムが渦巻く一方、マネタイズの仕組みはまだ整備されておらず、皆がただ好きでやっていた。MySpace上がりのArctic Monkeysがスターダムを駆け上がるのは痛快だった。
大阪で松田優作という嘘みたいな名前の男に出会った。「Omega Boy」とマジックで書かれたバルクのCD-Rを渡された。彼は青いエレクトライブで4つ打ちを作っていた。LADY FLASHというバンドでもキーボードも弾いていたが、社会性の低さからクビになっていた。のちにSoleil Soleilという名前に改名することになる、そのOmega Boyのトラックは、機材の都合上極めてシンプルであったが、妙に生き生きとしていた。音楽を聴き、作り手を想像する。それしかできなかったインターネットと違い、生身の人間がそこにいた。彼は変な奴であったが、なんというか堂々としていた。音楽が好きだから曲を作った。曲ができたから渡した。その以上でも以下でもない感じが、自分の欠けている部分であるように思えた。
その頃、ネクストMySpaceとしてSoundCloudのムーブメントが勃興していた。冷笑も恥じらいも捨てて、このゲームに参加しないといけないと強く感じた。本名でちょろちょろ宅録作品のアップロードをはじめたが、クールさが足りないと感じて活動名義を考えはじめた。同時に彼のはじめたTalking City 1994という名のバンドに参加した。いい曲がたくさんあったが、優作が飽きたのかレコーディングの途中で自然消滅した。
ちょうどAt The Drive-Inにハマっていて、同じような語感にしようという考えに加え、Small Black、Gold Panda、Ariel Pinkなど、当時好きなアーティストにやたら色名が入っており、自分もそうしようと決めた。はじめは”in the blue”でいこうと思ったが、抽象度が高すぎるため、in the blue 〇〇と具体的なモチーフを設定することにした。ここで、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの”blue nylon shirts”という曲の歌詞の素晴らしさを思い出したので、in the blue shirtとした。ローンを組んでデスクトップパソコンを購入した。当時流行っていたChillwaveの作法を踏襲したかったが、シンセサイザーをうまく使いこなせず、出来損ないの初期bibioみたいな宅録と、ゴミのThe Avalanchesみたいなサンプリングコラージュをひたすら作り続けた。
この頃のインターネットChillwaveシーンは、牽引していたToro Y Moiを筆頭に、ナードなくせにクールになろうという意志があったように思う。金になるという発想を根本的に全員持ち合わせておらず、しかしながら、自身をカッコつけた形でアイデンティファイしたいという欲望の香りが漂っていた。ここでもまだ自分は少々海外にかぶれていて、とにかくドメスティックなものと距離を置き、本場のムードを捉えようとした。音楽を通して、人生で初めて、自らのキモい自意識を身体の外に出すという体験をした。特になににもリーチせず、再生数は地を這うように低空飛行していたが、妙に心地の良い日々であった。
そんな自分をおもしろがる人間が現れはじめた。初期Twitterに潜むおもしろツイッタラー軍団と、Second Royalを中心とした京都インディシーンである。ネットで出会った友達と遊ぶことに抵抗がなくなり、実生活と音楽趣味の境界が曖昧になりはじめた。なにがどうというわけでもないが、いい感じのツイートをすることに魂を燃やした。Second Royalのパーティには可能な限り参加した。森野さん(Handsomeboy Technique)のDJの選曲は本当によく、文字通り魔法をかけられたような気分になれた。自分もこの魔法を会得したいと感じた。話せる相手はまだ少ないままであった。朝までtwitterをしながら、かかった曲や、良かった展開をメモした。
並行して、INNITやIdle Momentsを中心とした関西の電子音楽シーンとの出会いも大きかった。年上の先輩が、抽象度が高いまま、美意識を持って音楽をしていた。みんな変で、個性的な音楽をやっていた。そのくせに、全員が気さくであった。参加者の音源を集め、イベントの最後に聴く。Ustreamでプロジェクトファイルを公開し、解説をする配信をやる。今の自分の活動のアイデアソースもここである。全体的にみなあまり酒も飲まず、ずっと音楽の話をしていた。電子音楽でのパフォーマンスを”ライブ”と言い張っていたが、やりかたはバラバラであった。客と演者の境界もあやふやで、なんの実績もない自分も、当然のようにアーティストというか、音楽をやっている一人の友達として扱われた。曲を作るという行為に上下はなく、みな対等である、というマインドが謎に共有されていた。あるべき姿勢をここで学んだ。And Vice Versa久保さんに「とにかくクラブで何かできるようにノートパソコンを買ってきなよ」と言われたのでゴミみたいなスペックのThinkPadを購入した。とにかく金がなく、デスクトップパソコンの方のローンを滞納し、クレジットカードが作れなくなったが、代わりに無限の可能性を手に入れた。
かたや東京では、Maltine Recordsを中心とするネットレーベルが台頭していて、こちらもかなりオルタナティブな様相を醸していた。「より多くの混乱と快楽を!!!」というマルチネのスローガンは、インターネットアナーキズムのイズムがよく現れていた。とにかく、作品を作り、発信するということへのパッションがほうぼうから溢れていた。なにを聴いてもおもしろく感じ、自分も少しでもいい曲を作りたい、おもしろい音楽を作りたい、と思うようになった。未熟な状態を人に見られたくない、玄人でありたい、みたいな自意識はどこかへ消えていた。そんなことより、とにかく、自分の曲を人に聴いてもらいたかった。それをしたことで、なにが起こってほしいみたいな感情は、驚くほどなかった。