The Blue Envelope #7
#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
ここから個人的な話が続きます。長いので分けますが、本には丸ごと乗ると思います
#C4P_demo
Be 玄人(前編)
お恥ずかしい話、思春期から二十歳前後の私はだいぶこじらせていて、未熟な状態を人に見られたくないみたいな謎の強迫観念があったのである。
中学生の頃、音楽に興味を持ち、YouTubeなどでずっと様々なバンドの演奏を聴いている様子をみかねた母が、「ギター買おうか?」と尋ねてくれたことがあるが「いや、そこまでではないかな(笑)」と断ったことをよく覚えている。そのころは野球をしていて、運動部のほうが文化部より偉いというスクールカーストイデオロギーに脳をやられていたからである。正直にいうと欲しくてたまらなかった。音楽の開始がもうすでに遅れている。端的にいうと、この感じがかつての自分の全てである。なにかに興味を持った時、それに素直に取り組むことができなかったのだ。
高校に入り、クラスにX JAPANが好きすぎるやつがいて、彼がHIDEモデルのモッキンバードを購入したため、余った初心者セットのギターをお下がりで譲り受けた。そいつが「文化祭でバンドやろうや!」と言い出したわけであるが、ギターをもらっておいて、仲のいいメンバー全員で冷笑ムーブをとり、なんなら文化祭にも行かず、三宮のサイゼリアに繰り出すだけの日々を送る。弾けないギターが家にあるのは恥ずかしいという理由でひたすら練習を重ねたが、そもそも部屋弾きオンリーのギタリストそのものがダサいと思っていたため、その鍛錬の過程は誰にも言わないまま卒業することになる。
あらゆるものへの冷笑度合いがいくところまでいっていたので、高校は部活に入らなかった。青春のステレオタイプっぽいあらゆることを小馬鹿にした。それによりとにかく暇であった。西宮北口のバーミヤンでバイトをはじめ、シフトが終わったら横のブックオフで漫画を読み、入った給料で中古のロックの名盤を順番に買って行くだけの日々が始まる。ネットに転がる悪魔のサブカル軍団の極論レビューを読み漁り、「〇〇を通っていないなんて有り得ない、ニワカ」みたいな批判を回避するために、玄人がマストであると言いそうなアルバムをリスト化し、上から順に聴いていく修行をセルフではじめる。
リストに沿って60年代から現代に向かうが、大半が意味がわからない。ガキの耳には60-70年代のロックは正直かなり厳しく、ビートルズは数が多すぎたし、ロックおじさんが神扱いしていたRed Zeppelinも、ロンドンパンクの金字塔と言われたThe ClashのLondon Callingもなんかぺらぺらな音楽だな、としか思わなかった。父が愛聴していたEaglesの曲は聴くと古臭くてなんならイライラした。80年代後半から、耳が慣れたからか、あるいは現代との距離が近づいたのか徐々にマシになり、Nine Inch Nailsあたりの時代から好きな盤が現れはじめる。それでもなお理解できないものは多く、貴重な情報源であったロキノン誌面で神的扱いを受けていたRedio HeadはOK ComputerもKid Aも暗いなーと思っただけであった。それらを理解できない未熟さを認めたくなかったため、とにかくリストの完走を重視した。90年代以降のオルタナとインディが好みであることがだんだんとわかってきた。
00年代のインディにはシンセサイザーが多用されていて、電子音楽の把握が必要であると察した。次はWarpのカタログを上から順に聴いていくことになる。ようやく現代まで来たのにまた過去に戻ってやり直しであったが、ロックと違いあまりに古いものは手に入らず、ほぼ90年代スタートだったので楽であった。そして、知らぬ間に耳の調教が完了していて、Boards of Canadaらへんの時代に辿り着いた頃にはもう音楽を聴くのが楽しいだけになっていた。
友達の誰にも言わずにひっそりとギターを購入し、練習を重ねた。意味のわからない音楽との向き合い方をしている旨も、楽器の練習をしていることも誰にも明かされることはなかった。音楽を聴くのは個人的な行為で、人と共有したくないという気持ちが日に日に強まった。友達とは三宮のサイゼリアに行き、ラウンドワンに行き、カラオケでJPOPを歌った。音楽趣味と実生活が完全に切り離された暮らしが当たり前になる。
他人にその事実を述べることのないまま、知らぬ間に脳が完全にこじらせサブカルクソ野郎になってしまっていた。興味のある全てのジャンルで玄人っぽい顔をしていたいというあさましい思いに支配され、ここまできたら未熟な状態で音楽好きを名乗ることは許されなかった。その延長で、インテリでありたいという欲望が湧いてきたので、高三の春にバーミヤンを辞め、西宮市立図書館に行き先を変更した。金を稼いでいないので、CDが買えなくなった。図書館の自習室の景色しか知らないまま大学に合格した。
大学に入り、軽音サークルに見学に行くが、「〇〇を通っていないなんて有り得ない」などの論を飛ばしていたインターネット上の名もなきサブカルクソ野郎たちと同じ気持ちになってしまい、入ることができなかった。代わりに草野球チームに加入した。ここでTwitterという夢のツールを発見する。人が少なく、みんなが趣味の話をしていた。アカウントを作り、音楽の話をはじめた。実生活と、音楽趣味はひき続き切り離されたままであった。
大学生活は楽しかった。だいたい麻雀や、飲酒などをしていた。友達はみんな面白かった。常に誰かが家にいたり、誰かの家にいたりした。インターネットも最高だった。いろんな人が音楽の話の相手をしてくれるし、次から次へと知らない音楽の情報が入ってくる。
楽しかったが、ここで玄人強迫観念は悪化の一途を辿っていた。吉田山に住んでいて、坂を登るのがだるかったのでクロスバイクを買ったが、ママチャリ以上の自転車に乗るからには、自転車のあらゆるすべての修理を自らで出来ないとカッコ悪いという発想になり、工具を揃えた。最低限の映画や小説の名作を通っていないことは豊かではないと感じ、解消に努めた。こと音楽に関しても酷く、ネット弁慶の音楽アカウントになることを恐れ、存在しない仮想敵の仮想ツッコミへの対策を進めていた。レコード屋の実店舗に通い、現場のコミュニティに属し、なんなら音楽活動をしていて、複数の楽器が弾けて…足りないものがありすぎた。最悪なモチベーションであるが、やる気は常にあり、実生活と音楽趣味を混ぜようという試みが始まった。とりあえずJET SETや京都メトロに通うようになった。知り合いがいなかったので、ナイトイベントでも誰とも話さずにずっとTwitterをしていた。それでも現場にいることに意味があった。話したいことと、悪しき自意識を抱えすぎていて、一方で正しいコミュニケーション能力と素直さは持ち合わせていなかった。
大学には意味のわからないサークルがたくさんあった。人数で言うとテニサーなどの方が多いが、サークル数で考えると大半がマイナー趣味を対象にしていた。周りで、やりたいことに素直に向き合っている人たちをたくさん目の当たりにし、自分の趣味嗜好がたとえニッチなものであっても、素直に取り組んだほうが幸せであることを理解しはじめていた。「美術部は隠キャ!サッカー部は陽キャ!」みたいなスクールカーストイデオロギーが完全に間違っていることを頭で理解はしていたが、奥に根付いたそれの残渣みたいなものを捨てきれていなかった。たとえば、学内に「ビラがパズルになってまーす!」と言いながら、自作のパズルが掲載された用紙を配り続けている方がいたが、それを見て、「変な人が変なことやってるわ(笑)」と冷笑する魂を消し切ることが出来ずにいたのだ。彼はパズルを面白いと思い、パズルを愛し、パズルを自作し、人に配っている。その活動は理想的である。でもそうなれない自分がいた。玄人でありたい、という強迫観念の正体は、マイノリティ活動を堂々とするための許しの手形が欲しかっただけなのである。ありのままに変な音楽を作り、そのクオリティを問わずにありのままに堂々とできるようになるには、この頃の自分は本当の意味でまだ未熟だったのだ。
授業にはあまりいけなかった。2年生の前期の終わりに留年が決まった。