オタクマジョリティ問題:
INMU KINGがかかったことに関する備忘録
以下のツイートに対する個人的な整理。結論のようなものはありません。
ここ数年で大きく勢いづいたクラブシーンのジャンルが二つある。ヒップホップとオタクコンテンツである。前者は元々クラブシーンに密接であったので今回はさておいて、vtuber、アニメ、ストリーマーなど、新たな金脈が次々と勃興する後者が産業的に無視できず、これらをどう取り込むかというのがここ数年であった。成功例として、「暴力的にカワイイ」「NIGHT HIKE」など、規模を拡大し数千人規模のイベントへと成長した。
元々渋谷VISIONでやっていた「trackmaker」の系譜のイベントである新宿ZEROTOKYOでのイベント「GOLD DISC」も同様に、vtuber、アニメ、ボカロなどの関連クリエイターを積極的に取り込んだ。毎回1000人以上安定して集客しており、昔を思うととんでもない規模である。
先日このイベントに出演した際に、同じステージに出ていた前髪ぱっつん少年というユニットが、ゲイビデオ『真夏の夜の淫夢』由来のミーム楽曲『INMU KING』のリミックスをプレイした。かかっただけでもうんざりであったが、それ以上に、客に大受けしていたのがあまりに衝撃的で、その様子に対して整理しきれない気持ちになってしまったのである。メンバーの一人はイベント後にXで謝罪をしていた。その謝罪は必要のあるものであったのか、その時点のみならず、今になってもいまだによくわかっていない。(念を押しておくが、彼らを糾弾する意図は全くない。読んだらわかると思うけど。)
中学生の時にドラマ『電車男』を通じて、当時のステレオタイプとしての2ちゃんねらーが描かれた。翌年、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の1期が人気を博した。自分の実家は西宮にあり、近所である西宮北高や、その通学路にオタクどもが聖地巡礼としてカメラを持って殺到した。
20年前である当時、深夜アニメを見る大人、という存在は明確にキモくて憚られる存在であった。ヤンキー層がいて、中間の一般層がいて、オタク層がいると単純化した時に、深夜アニメの話題というのはオタク層のためにあり、中間層以上でポジティブに取り扱われることはほぼなかった。街に突如現れた聖地巡礼ハルヒオタは、街の治安を乱す不穏因子であった。自分が高校生の時、西宮北高の文化祭は治安維持のために一般入場が不可になった。キモいオタクのおっさんがデカいカメラを担いで来て、女子高生の写真を撮ってしまうからである。そんなこともあって、街のオタクヘイトは高止まりしていったわけである。
そんな時代に、着々と育まれたのが、ニコニコ動画を中心としたカルチャーで、2ちゃんそのものは見ないがまとめサイトは見てる、くらいのライト層までをカバーした。ボカロ、音MAD、弾いてみた、歌い手カルチャーなどが生まれた。『真夏の夜の淫夢』関連、野獣先輩ミームが溢れたのもこの頃である。自分も含め、倫理観に乏しいガキどもはその辺のノリにどっぷり浸かっていた。実在の出演者が本人の同意なく晒され、同性愛そのものが笑いの道具にされ続けてきたわけで、この頃から問題しかなかったわけであるが、社会からすると割とどうでもよいことであった。なぜなら、この手の話を表立ってするような雰囲気にはなっていなかったからである。
時は経ち2026年、ヤンキー層、一般層、オタク層がいたとして、大人子供関係なく、その全員が当たり前にアニメをみている時代が到来した。30代が美少女キャラのぬいぐるみをカバンにぶら下げるなんて行為は、かつて恥も外聞もないキモオタの特権といってもよかったわけであるが、いまは男女関係なく当たり前に街中でみられる光景となった。推し活などという言葉と共に、メディアでマスの消費行動としてプッシュされている。かつての銀魂大好き腐女子くらいのディープさの層は、20年前は完全にキモオタ枠であったが、いまだったら割とマス側であろう。昔の基準を思うと、総オタク時代といって良い。
こういった背景の元、ニコ動カルチャーの再評価、CAR CRASH AND SIREN周辺に象徴されるHyperpop-Hyperflipのジャンルとしての盛り上がりなどを引っ提げ、全てがごった煮になって戻ってきた。良いものも、悪いものもすべてまとめて、である。チョップ&フリップに魂を燃やしてきた自分にとって、界隈のアンセムであるworldwidesuperstarの編集感覚など、自分が夢中になった初期SoundCloudと同じようなマインドが散見され、この上なく嬉しい。才能のあるクリエイターも次々と出てきている。一方で、淫夢ミームのような、自分の世代が時間をかけて置いてきた、悪いオタクの精神性もが、濾過などされることもなく、改めて目の前に還ってきたのである。
当時と今の最も異なる点をあげるとするならば、オタクが完全にマジョリティ化したことである。かつては歌番組でロックバンドが当てフリをするだけで叩かれていたが、いまは巨大LEDに映し出されたフィクションのキャラクターに向かってペンライトを振ることがマスの振る舞いになっている。これは文化の変遷であるから、好みの問題でしかない。オタクであることが後ろめたくなくなることは喜ばしいことである。しかし、その文化の中で育ったあらゆるノリの後ろめたさまで消えていいわけではない。そもそも内輪でこそこそやればセーフという話でもないようなことが、多数派になることによってより実行のハードルが下がってしまうのが問題である。
先日書いた文章をそのまま引用する。
自由というのは、不明示のゾーニングとセットである。それがドレスコードなのか、ルックスの程度なのか、カルチャー知識の差なのか、ノリの合う合わないなのかはさておき、この場はこうあってほしい、という総意の積み重ねによって、無形のマナーが形成される。そのマナーのクールさを定義し合うのがクラブカルチャーである。
クラブのあり方についての自分のスタンスは上記の以上でも以下でもない。DJがINMU KINGをエディットし、ビルドアップとドロップを足して、ブレイクで野獣先輩の声が流れることがクールであると思ってプレイした。オーディエンスはそれをおもしろがり、盛り上がるべきピークであると受容した。いま改めて考えても、それをするのは自由で、自分が止めたりする道理はない。しかしながら、自分はそこで気分よくいられない。結局のところ、自分が不明示のゾーニング対象になったのである。
前髪ぱっつん少年にもおそらく悪意はなく、インターネットミームを並列に並べて、自身のスキルでエディットしていっただけである。あまりに若く、そして技術がある。偶然にも当のGOLD DISC出演時の告知でおれのツイートもミーム扱いしているが、おれのことも知らないだろうし、元々の投稿の流れを把握しているわけでもないだろう。淫無にどんな倫理的問題があるかも、「マジで今夜だ」のくだりが本来なんだったのかも、彼らにとっては興味の対象外で、どちらも数多あるミームのうちの1つでしかない。そこの区別が特にないからこそ生まれる表現があり、それに伴う炎上がある。
淫夢関連コンテンツが持つ倫理的な問題への無理解さと、あらゆるミームを無邪気におもしろがる世代の美意識ないしは価値観は独立しているとも言えるし、セットとも言える。かつてネットの隅でこそこそと共有されていた文化と共に育ち、そこから多くのものを受け取り、音楽を作ってきた。そこには今も心から素晴らしいと思えるものがある。一方で、当時と同じような顔をして帰ってきたそれは、もう二度と見たくなかったものまで含んでいた。我々の世代の反省などつゆ知らず。
オタクたちがかつて多数派から向けられていたネガティブな視線を、知らぬ間に、自分が、向ける側になっている。もっとも、その視線の先にいるのは、かつてのような隅の少数派ではなく、フロアを埋め尽くす多数派である。おれはいつだって勝ち馬に乗れていないとも取れる。少数派から少数派へ、いつまではずれくじを引けばいいんだとも思ってしまう。
自分がサンプリングという手法を愛しているのは、素材を元の文脈から切り離し、新しい意味を与えることができるからである。あらゆる素材の歴史的背景を理解した人間だけが再利用できる、というルールなどはない。この世の全ての音源が素材である。vaperwaveの手捌きのように、素材の文脈を無視してフィールが走り出すから面白いのだ。それと同時に、文脈を切り離したからといって、元の素材が持つ倫理的問題まで消えるわけではない。じゃあどこまでやっていいのか、という判断を単純化せず、都度複雑な判断を回していくのが自分のミュージシャンシップにおける最大の矜持とも言える。
マルチネレコードのノリもかつてはしばしばホモソーシャルすぎると批判された。至極真っ当であると思う。自分の活動の歴史は、なるべくオタクのいいところをのこして、悪いところを捨てていく作業と共にあった。そして、2026年、当事者だった文化の負の側面を、次世代が再発見し、チョップ&フリップしている。捨てたはずの恥部が拾われ、文脈が切り離され、再構築される。これは実に心苦しいことである。そして、おれの立場からは、口が裂けてもそれをやめろとは言えない。愛した文化の性質に悩まされる。おれが素材を刻み、再構築をすることで、切り離してきた文脈達の亡霊は、いつまでも自分の周りを揺蕩っている。それに殺されるのか、生かされるのかは自分次第である。ミイラ取りはミイラになる運命なのだろうか?



