#ITBS_text
おれは音楽を聴くのがかなり好きである。よい音楽に感動してしまって、もうこれだけでいいよぉ〜と思ってしまう。だから音楽ばかりやっている。
にもかかわらず、自分が音楽を聴いている時、特にライブイベントなどにおける自分というのは、傍から見ると結構つまらなさそうにしていたりする。無表情だったり、棒立ちで特にノってもいなかったり、スマホをいじったりしている。前の方に行ったりもせず、仏頂面で後方でボーッとしていたりもするのだ。そもそも自分は二十歳くらいのころは自意識がめちゃくちゃで、知り合いもいないのに夜にクラブに行って、金もないので酒も飲まず、特に誰とも喋らずに隅っこで一晩中スマホを開いてTwitterをし続けていたわけであり、こんなことはいまに始まったわけではない。だいぶマシにはなったが、根の性格の問題である。
大袈裟な話になるが、この、「音楽イベントで誰とも喋らずに隅でスマホをいじっているやつ」に対してどういう感情を持ち、どうあるべきと考えるのかが重要であると最近は強く思い始めている。最終的に、「つまらないのはだれのせい?」という質問に答えるということになるからだ。
例えば、スマホいじりクソ野郎に対して「しらけるからやめて欲しいな」と思う人はそれなりにいるだろう。合唱コンクールでろくに歌わないやつ、体育祭でちゃんとがんばらないオタク、文化祭の準備を手伝わずさっさと帰るやつ、なんでもいいが、みんなで楽しくやってんのにそれに乗ってこないやつ、というのは基本的に空気が読めていないとされる。やれやれくらいで済むか、積極的な排除まで行くかは場合によるが、その”悪い態度”はオーディエンス側が冷めるから悪、という考え方は広く流通していて、そしてそれなりに理解はできる。
似た考え方として、演奏する演者に失礼だからやめたほうがいい、という視点もある。わざわざ演奏してくれているのに、”悪い態度”で鑑賞するなんてけしからん、という考えである。客が思う場合もあるし、演者側がそう思う場合もある。オーディエンスではなく、演者に失礼だから悪、と考える。これも筋が通っている。これは文化的な差異がかなり強く、自分がプレイ中にそれを無視して談笑する客を怒るDJはほぼいないだろうが、ライブハウスにはそれをよしとしないバンドマンはかなりいるだろう。
上記の考え方のカウンターとして、クラブというのは自由なんだから、どんな態度も許容されるべき、という考えもある。酒を飲もうが、異性を口説こうが、隅でスマホをいじろうが、DJをガン見しようが、自由こそがクラブの魅力であるという考えである。自分がクラブで遊び続けられている理由の一つであり、基本的に肯定する立場である。が、そう簡単にもいかない。
プレイ中は演者に集中すべき、という前提は、逆にいうと、演者たるものお客様を楽しませなければならない、という含みがある。楽しいかどうかの責任を演者に帰属させるのだ。演奏中はよそ見しないで見ていてね、とそっちが言うのであれば、じゃあ満足させてくれよ、とこっちが思うのはまあ自然である。一方、鑑賞における態度を自由とする、なんなら聴かなくてもよい、という前提は、演者の楽しませの責務は薄まり、楽しいかどうかは鑑賞者の在り方次第となる。DJが素晴らしいプレイをした、しかし客はバーカンで盛り上がって乾杯していたので全然聴いてなかった。聴いていないことを許容しているのだから、双方何の責務も負いあっていないと言えよう。
有名バンドの演奏中に、お客さんが指を立てて一斉に前後に動かすみたいな動作に「指ピッピ」なるかわいい呼称がつき、なんなら揶揄の対象になったりしている。指ピッピ勢の考えはシンプルである。オーディエンスをしらけさせることも、演者に失礼と思わせることもしたくないのだ。ある種の真面目さや人の良さの類からきている。マスゲームみたいに同じ動きを大勢でしていてキモい、という感情は実は世間ではそこまで強くなく、そんなことよりも、失礼でないことを重視するわけである。そんな群衆がセーフティなライブの鑑賞態度を総意として探った結果、「指ピッピ」に行き着くのは想像に難くない。リクルートスーツを着て就活をするのは、面接に落ちたくないし、変なやつとも思われたくないし、迷惑もかけたくないという純粋な気持ちがあるだけである。このリクルートスーツ的なものに対して、どれくらいのやだみを感じるかは人それぞれである。集団同調にネガティヴな印象がなければ、「指ピッピ」という安牌は、心理的負担の低い、助かる作法であろう。
逆に「指ピッピ」から解放されて自由になりたいと願うならば、演者に楽しませ責務がないとすることからはじまる。それは金を払っても”お客様”にはなれないと言ってもよい。そして、残酷なことに、自由な場であればあるほどに、ゾーニングの機能が求められる。それは往々にして、望まれざる人間に対して、暗に居心地を悪くすることで達成される。無精髭を生やして、アニメ美少女キャラが描かれたTシャツを着て、おしゃれな人が集まるファッショナブルな会に赴く。そこでスマホゲーをやり続けることは禁止はされていない。が、実にきまりが悪いことであろう。”お客様”ではないので、つまらなくて居心地が悪い場合も、演者の責務は薄く、そのまま気にせずにそこにい続けるか、その場を去るのかは自身で判断する必要があるのだ。
自由というのは、不明示のゾーニングとセットである。それがドレスコードなのか、ルックスの程度なのか、カルチャー知識の差なのか、ノリの合う合わないなのかはさておき、この場はこうあってほしい、という総意の積み重ねによって、無形のマナーが形成される。そのマナーのクールさを定義し合うのがクラブカルチャーである。
みながセーフティさを求めてたどり着いたマナーが指ピッピであるというなら、クラブカルチャーのそれぞれの場で醸造された無形のマナーとどう違うかと言われると、差は大してないのである。おれたちは指ピッピみたいなものに包囲されて生きている。指ピッピを揶揄する側も、大体のケースはまた別の自分の界隈の作法を守っているだけである。差があるとするならば、つまらなかった時の責任を誰が負うか?という問いへの回答である。楽しいのは/つまんないのは、おまえのせい?おれのせい?
指ピッピをする人は、アーティストを信用していて、楽しませてくれると思っているからやる。その信頼は、つまんないならアーティストのパフォーマンスの質が低いからという考えの裏返しでもある。逆に指ピッピ的なスタンスを拒否するということは、おもろいかどうかを自分で決める責務を負う。
関連する話として、イベントに出るたびに、「このイベントは一人で行っても大丈夫でしょうか?」という質問をたまにされる。もちろんいつだって大丈夫である。「音楽イベントで誰とも喋らずに隅でスマホをいじっているやつ」であったおれが、まだ生存しているのだからいいに決まっている。が、この質問の裏に、「1人でいっても楽しませてくれますよね?」という含意があるのであればそこまでは面倒は見きれない。その含みは指ピッピ的マインドそのものである。1人で来たあなたを楽しませる善処はせども、特別に便宜を図ったりするのは無理である。もっとも、そこまでの人はまあおらず、この質問の大半は、一人でいて浮いてしまわないかを気にしている場合がほとんどであろう。「一人で来るやつなんてほとんどいませんよw」というケースを恐れているのであり、つまりこれはゾーニングの話である。アホみたいな話であるが、そういうのを気にしないやつだけが一人でくる。そして残念ながら、弾かれないことを保証できる場は存在しない。おれにできるのは、自分が弾く側に回らないと決めておくことくらいである。
オーディエンス間での作法はもっと難しい。自身がスマホいじりクソ野郎である場合は、飽きたら帰れば終わりである。一方、スマホいじりを強く不快に感じ、しらけるから退場してほしいと願う人はどうすれば良いだろう。対オーディエンスの”悪い態度”判定は実にセンシティブである。ライブで大声で一緒に歌っちゃう、激しいモッシュをする、オタ芸を打つ、デカいカバンで来ちゃう、服装がダサい、顔がキモい。理にかなったものからそうでないものまで無限に拡張可能である。
個人的には、ここを可能な限り寛容にしたいというのが希望である。オーディエンス間での作法の押し付け合いというのは、結局誰がコストを負うかの選択をしているだけである。大男がモッシュをすると、小柄な人・女性・体の弱い人が不利益を被り、不適切なゾーニングとして機能する。可能な限り寛容でいたいが、悪しき選別はなるべくしたくない。自分の方針を具体的にいうと、「属性に関わるものは全て許容する、他人に物理的なコストを与えるものは都度判断」である。
自由な場において、不和を生じさせないためにはゾーニングは必要である。エンジョイ勢とガチ勢は分けたほうがいいように、それ自体は悪い事ではない。自分はというと、そこまで自らをクールに見せたり、コンセプトを明確にすることに意欲がない。中途半端の、なあなあな感じが好きなので、選別意識が希薄なのである。
選別のゆるさによって自分の楽しみが阻害されたとして、自由でいられないことに比べたら、そんなことは大した問題ではない。わがままなことに、おれはつまんなそうにしているし、勝手に帰ったりするが、内心は楽しんでいるし、排斥されたくない。もう、他者に寛容であることしか道は残されていないのだ。
突き詰めると、自分が楽しめそうな、行くイベントを自分で選ぶのがセンスである。指ピッピも、ドレスコードも、暗に形成されたマナーも、全部知らなくても構わない。勝手に来て、空気が読めない状態でいてもよい。門戸は開かれている。しかし、自由であるためには負わなければいけない代償があるのだ。もしその場所が合わなかったと感じたときは、無駄金払ってつまんなくて最悪だったな、やれやれ、と、自らの意思でその場を去らなければいけない。そういった損のリスクを引き受けることでのみ、どんな属性や性格の人も受け入れる自由は成立するのだ。

