大学で音楽制作の授業を持っていると、3-4割程度の人がボカロP的な活動様式を志向している(定量データなしの与太話です)。アマチュアがDTMでやっていこう、となった時に、特に地方においてはボカロP以外の活動様式や成功の導線をイメージするのは難しく、例えば自分のような人間がどういった活動をしていて、どうやって飯を食っているのかはイメージしづらいのである。まがりなりにも金をもらって指導をしている以上、ボカロなんて知りませんよ、という態度をとるわけにもいかず、ときどき初音ミクを用いて曲を作っている。
一応ニコニコ動画β版からのユーザであり、キッズのころはそれなりにニコ動を見ていたし、igrek-u氏をはじめとする弾いてみた界隈の薫陶を受け今に至っていることもあり、初期ニコ動にはなかなかに思い入れがある。そこは実にC4P的な場所であった。多少の美化はあるが、”才能の無駄遣い”タグをはじめとし、社会的評価が得られるほどの能力を、わけのわからない方向に発揮することを賞賛する空気があった。それの理由はシンプルで、動画投稿と資本的な成功が基本的には結びついていなかったからである。ニコ動でやっていることが、金儲け目的ではないことのエクスキューズとして機能した時期があったのだ。だからこそ、プロやハイアマチュアが、わざわざ好きなことをやるためだけにやってくるだけの理由となっていたのである。
今のボカロ界隈が昔と違う点は様々である。ボカロP出身のメジャーアーティストが台頭した時代を通り越してボカロ市場自体は十分に巨大化し、お茶の間の知名度はないままボカロ市場だけで十分な収益や社会的評価を得るプレイヤーが珍しくなくなっているのである。わざわざ界隈の外に打って出るまでもなく、そこで成功すればよくなったのだ(これがバブルなのか、適正な市場サイズなのかは自分には判断できない)。ここで、コロナ禍以降で最も象徴的なのは株式会社ドワンゴが主催するオンライン参加型イベントThe VOCALOID Collection(通称ボカコレ)である。
ボカコレとは、指定期間に投稿した動画のインプレッション数を集計して、大々的にランキング化するというお祭りである。言ってしまえばプラットフォーム主催の巨大なボカロ賞レースである。参加曲数は5000を超え、プレイヤーだけで10^3オーダーである。これで1位を取ろうもんなら、界隈におけるかなりの資本的、社会的評価を獲得することができるのだ。これが近年のボカロ盛り上がりを支えているという面がある一方で、アマチュアのC4Qイデオロギーを加速させているという点があり、ここには個人的に問題意識を感じている。(ちなみにお笑いのM-1グランプリ参加者は1万程度。その半分くらいのプレイヤー規模がボカロでレースしてんのはかなり驚く。)
学生と話していて非常に気になるのが、ビジネスマーケティング的な視点での発言が非常に目立つことである。SNS運用がどうだとか、アカウントを”動かす/育てる”とかいう物言いとか、ランキングの初動が重要だからそこをハックしたほうがいいとか、正直、音楽を初めて1-2年の、技術的に拙い人間がする話なのかと思ってしまう。実際ネットでボカコレについて検索しても、いやゆる”攻略”が目的の記事がかなり出てきてしまい、卵が先か鶏が先か、その数字志向の構造はより強固になっていく。そして実際に参加したところで、結局いいところ数十、良くても数百再生しかされず、やる気を失ってしまうのである。
C4P論者としては正直この構造はうんざりである。しかし、パーソナリティの抽出のために創作と相対比較をしよう、楽しいよ!といくら言ったところで、目の前の巨大なランキングのボトム層であることを事実として突きつけられると、「他人と比べてしまうんです」とか、「すごい人を見てやる気を無くしちゃうんです」という気持ちになるのもわかる。
定量的な価値で序列をつける、というのは実に資本主義的なやり方である。資本主義の大きな意義は、カスを淘汰して市場から退場させることである。過去にも散々書いているが、その淘汰圧があるからこそ、街には度を超えてまずいラーメン屋も、悪態をつきながら接客するスーパーもほぼない。市場から退場させることが重要な機能として実装されているのだ。だから、ランキング低位の鳴かず飛ばずの人間がやる気を失って、市場を去るのは、至極機能通りの振る舞いなのである。恐ろしいことに、ラーメン屋と違って、ボカコレの底辺は何も売っていない。対価も配分もない場所に、序列という市場の形式だけが輸入されている。淘汰されても経済的には何も失わないのに、心理だけが律儀に淘汰されるのだ。バトル漫画でもトーナメントがおもろいわけで、順位をつけるという行為には悪魔的なおもしろさがある。が、音楽の本懐はいうまでもなくそこにはない。
資本主義のフレームを外れるためには、曲を投げる対象を市場でなくせば良い。子供が描いた絵を親が見ると嬉しいだろうが、それは自分の子供だからであり、絵のクオリティが理由ではないだろう。恋人にラブレターをもらって嬉しい、これは文章力によるものではないだろう。このように、資本主義定量物差しから逃れる特効薬は、クオリティ以外の部分にかけがえなさを見出すことである。この”かけがえなさ”を、家族や恋人以外の創作物に拡張していくことが、C4P的には正しい態度である。
今回「ひみつの / in the blue shirt feat.初音ミク」という曲を作った。曲のテーマはさておいて、そもそもこれは、普段授業とかで関わっていたり、空き時間に一緒にくだらない雑談をしている学生と一緒にボカコレに参加できたら楽しいだろうなと思って作った曲である。そいつらが聴いてさえくれればよく、あとはおまけである。逆にいうと、ボカコレに参加する学生は、少なくともおれとか、周りの友達が聴くわけであるから、それでいいや、くらいの気持ちでいてほしいわけである。
ボカコレにおいて、再生数、マイリスト数、いいね数は通貨のようなものであるとも言える。統一規格で価値を測って、規定するのだ。そこでの尺度で秀でていない人間が、それにへこまないようにする唯一の方法は、手渡しをすることである。要するに、具体的な聴いてほしい人を設定して、そいつに手渡せば良い。デジタルでもアナログでも構わない。そいつ向けに作るかどうかはさておいて、パーソナリティを認識した個々人に曲を聴いてもらい、感想をもらうのが良い。感想を言うからには、じゃあ逆にそいつの、創作的な要素を、一個人としてしっかりとみて感想を言い返せるとより良いだろう。綺麗事ではなく、人は全員違う。抽象化された数字のその先の、パーソナリティを手渡し、手渡されることでしかそこにはたどり着くことはできない。友達が一人もいないなら、究極的には自分に向ければ良い。創作物を残すということは、過去の自分をパッケージングして、未来の自分に手渡すことである。自分の過去と未来を対話させられる最も良い手段が創作である。
同時に、人の手渡しを受け入れることも大切である。他人の曲を数字でしか見ないくせに、自分の音楽の本質的な部分を受け取ってくれ、みたいな要求は通るはずがない。一旦胸に手を当てて、低クオリティのものを本気で鑑賞し、感想を持とうとしたことがあるかを考えてほしい。そんな人はあまりいない。みんな結局質のいいもののみに触れたいのであり、資本主義と利害を同じくしている。ここに対してオルタナティブな姿勢でいることが難しいのは大前提で、そうではない評価軸で見られたいのなら、まずは自分から、他者のパーソナリティをまなざす姿勢をもつべきなのである。
それがしたくないのなら、適切な運用のもと、PDCAサイクル的なものを回して、資本主義パラメータを”伸ばす”ことに腐心すれば良い。淘汰圧を掻い潜り、高みに到達する。それは美しいことである。一方で勝者は限られる。そちらの方が適性がある人もいるだろう。しかし、音楽は勝者だけのためにはない。クオリティが足りず、資本主義レースから退場させられたとして、音楽から退場する必要は全くない。資本的に価値がないことと、創作をする価値があるかどうかは全くもって関係がない。このことがあまり腹落ちしない人がいるならば、自身がC4Qイデオロギーを過剰に内面化していることを疑ったほうがよいだろう。この理屈が綺麗事に聞こえる人にこそ届いてほしいが、そういう人であるほど届かないことは、すでに散々思い知っている。だから自分も、身近な人とのコミュニケーションをやっていくしかないのだ。
は実にC4P的な場所であった。多少の美化はあるが、”才能の無駄遣い”タグをはじめとし、社会的評価が得られるほどの能力を、わけのわからない方向に発揮することを賞賛する空気があった。それの理由はシンプルで、動画投稿と資本的な成功が基本的には結びついていなかったからである。ニコ動でやっていることが、金儲け目的ではないことのエクスキューズとして機能した時期があったのだ。だからこそ、プロやハイアマチュアが、わざわざ好きなことをやるためだけにやってくるだけの理由となっていたのである。
今のボカロ界隈が昔と違う点は様々である。ボカロP出身のメジャーアーティストが台頭した時代を通り越してボカロ市場自体は十分に巨大化し、お茶の間の知名度はないままボカロ市場だけで十分な収益や社会的評価を得るプレイヤーが珍しくなくなっているのである。わざわざ界隈の外に打って出るまでもなく、そこで成功すればよくなったのだ(これがバブルなのか、適正な市場サイズなのかは自分には判断できない)。ここで、コロナ禍以降で最も象徴的なのは株式会社ドワンゴが主催するオンライン参加型イベントThe VOCALOID Collection(通称ボカコレ)である。
ボカコレとは、指定期間に投稿した動画のインプレッション数を集計して、大々的にランキング化するというお祭りである。言ってしまえばプラットフォーム主催の巨大なボカロ賞レースである。参加曲数は5000を超え、プレイヤーだけで10^3オーダーである。これで1位を取ろうもんなら、界隈におけるかなりの資本的、社会的評価を獲得することができるのだ。これが近年のボカロ盛り上がりを支えているという面がある一方で、アマチュアのC4Qイデオロギーを加速させているという点があり、ここには個人的に問題意識を感じている。(ちなみにお笑いのM-1グランプリ参加者は1万程度。その半分くらいのプレイヤー規模がボカロでレースしてんのはかなり驚く。)
学生と話していて非常に気になるのが、ビジネスマーケティング的な視点での発言が非常に目立つことである。SNS運用がどうだとか、アカウントを”動かす/育てる”とかいう物言いとか、ランキングの初動が重要だからそこをハックしたほうがいいとか、正直、音楽を初めて1-2年の、技術的に拙い人間がする話なのかと思ってしまう。実際ネットでボカコレについて検索しても、いやゆる”攻略”が目的の記事がかなり出てきてしまい、卵が先か鶏が先か、その数字志向の構造はより強固になっていく。そして実際に参加したところで、結局いいところ数十、良くても数百再生しかされず、やる気を失ってしまうのである。
C4P論者としては正直この構造はうんざりである。しかし、パーソナリティの抽出のために創作と相対比較をしよう、楽しいよ!といくら言ったところで、目の前の巨大なランキングのボトム層であることを事実として突きつけられると、「他人と比べてしまうんです」とか、「すごい人を見てやる気を無くしちゃうんです」という気持ちになるのもわかる。
定量的な価値で序列をつける、というのは実に資本主義的なやり方である。資本主義の大きな意義は、カスを淘汰して市場から退場させることである。過去にも散々書いているが、その淘汰圧があるからこそ、街には度を超えてまずいラーメン屋も、悪態をつきながら接客するスーパーもほぼない。市場から退場させることが重要な機能として実装されているのだ。だから、ランキング低位の鳴かず飛ばずの人間がやる気を失って、市場を去るのは、至極機能通りの振る舞いなのである。恐ろしいことに、ラーメン屋と違って、ボカコレの底辺は何も売っていない。対価も配分もない場所に、序列という市場の形式だけが輸入されている。淘汰されても経済的には何も失わないのに、心理だけが律儀に淘汰されるのだ。バトル漫画でもトーナメントがおもろいわけで、順位をつけるという行為には悪魔的なおもしろさがある。が、音楽の本懐はいうまでもなくそこにはない。
資本主義のフレームを外れるためには、曲を投げる対象を市場でなくせば良い。子供が描いた絵を親が見ると嬉しいだろうが、それは自分の子供だからであり、絵のクオリティが理由ではないだろう。恋人にラブレターをもらって嬉しい、これは文章力によるものではないだろう。このように、資本主義定量物差しから逃れる特効薬は、クオリティ以外の部分にかけがえなさを見出すことである。この”かけがえなさ”を、家族や恋人以外の創作物に拡張していくことが、C4P的には正しい態度である。
今回「ひみつの / in the blue shirt feat.初音ミク」という曲を作った。曲のテーマはさておいて、そもそもこれは、普段授業とかで関わっていたり、空き時間に一緒にくだらない雑談をしている学生と一緒にボカコレに参加できたら楽しいだろうなと思って作った曲である。そいつらが聴いてさえくれればよく、あとはおまけである。逆にいうと、ボカコレに参加する学生は、少なくともおれとか、周りの友達が聴くわけであるから、それでいいや、くらいの気持ちでいてほしいわけである。
ボカコレにおいて、再生数、マイリスト数、いいね数は通貨のようなものであるとも言える。統一規格で価値を測って、規定するのだ。そこでの尺度で秀でていない人間が、それにへこまないようにする唯一の方法は、手渡しをすることである。要するに、具体的な聴いてほしい人を設定して、そいつに手渡せば良い。デジタルでもアナログでも構わない。そいつ向けに作るかどうかはさておいて、パーソナリティを認識した個々人に曲を聴いてもらい、感想をもらうのが良い。感想を言うからには、じゃあ逆にそいつの、創作的な要素を、一個人としてしっかりとみて感想を言い返せるとより良いだろう。綺麗事ではなく、人は全員違う。抽象化された数字のその先の、パーソナリティを手渡し、手渡されることでしかそこにはたどり着くことはできない。友達が一人もいないなら、究極的には自分に向ければ良い。創作物を残すということは、過去の自分をパッケージングして、未来の自分に手渡すことである。自分の過去と未来を対話させられる最も良い手段が創作である。
同時に、人の手渡しを受け入れることも大切である。他人の曲を数字でしか見ないくせに、自分の音楽の本質的な部分を受け取ってくれ、みたいな要求は通るはずがない。一旦胸に手を当てて、低クオリティのものを本気で鑑賞し、感想を持とうとしたことがあるかを考えてほしい。そんな人はあまりいない。みんな結局質のいいもののみに触れたいのであり、資本主義と利害を同じくしている。ここに対してオルタナティブな姿勢でいることが難しいのは大前提で、そうではない評価軸で見られたいのなら、まずは自分から、他者のパーソナリティをまなざす姿勢をもつべきなのである。
それがしたくないのなら、適切な運用のもと、PDCAサイクル的なものを回して、資本主義パラメータを”伸ばす”ことに腐心すれば良い。淘汰圧を掻い潜り、高みに到達する。それは美しいことである。一方で勝者は限られる。そちらの方が適性がある人もいるだろう。しかし、音楽は勝者だけのためにはない。クオリティが足りず、資本主義レースから退場させられたとして、音楽から退場する必要は全くない。資本的に価値がないことと、創作をする価値があるかどうかは全くもって関係がない。このことがあまり腹落ちしない人がいるならば、自身がC4Qイデオロギーを過剰に内面化していることを疑ったほうがよいだろう。この理屈が綺麗事に聞こえる人にこそ届いてほしいが、そういう人であるほど届かないことは、すでに散々思い知っている。だから自分も、身近な人とのコミュニケーションをやっていくしかないのだ。


