The Blue Envelope #29
#C4P_demo
そして非合理へ
近所の、ほぼ同じような距離にラーメン屋が2軒あるとする。ラーメンの味とか、価格とか、内装とか、店長の人柄とか、さまざまな観点での質の比較が行われて、いい感じの方に行く。TPOや気分に応じて使い分けたりもするだろう。しかしながら、あるレベルを超えてまずいラーメン屋はそのうち潰れる。資本主義における、市場淘汰の素晴らしい部分はここにあり、時さえ経てば、基本的にはクソマズラーメンは市場から退場し、われわれの口に入ることはなくなる。市場によって、オートマティックに足切りが実施され、社会全体でクオリティが勝手に担保される。近代の大発明である。
単純に考えると、そもそも知らん素人が作ったまずいラーメンを食う道理はない。道理もなければ、その機会自体が市場システムによって排除されている。そして、みなそれを妥当なことだと思っているのが今の社会である。
しかしながら、創作分野では、謎の素人がラーメンを食わそうとしてくるような場面が頻発する。アマチュアがネットで、路上で、なんらかの公共スペースで、創作物を公開し、鑑賞を求める行為は、往々にして、クソマズラーメンを提供している状態となんら変わりはない。当たり前のことだが、たいした努力もしていない人間が放った創作物は、市場では価値が極めて低い。
「曲作ってるんですけど全然聴いてもらえません!どうすればいいですか?」という質問をしてくる人は、大体はこの前提を直視することから逃げている。クオリティという観点でこれに回答するならば、周りが驚くくらい良い曲を作ってください、でこの話は終わりである。100mを9秒台で走ることができれば、オリンピックに出ることができる。無視されることはないだろう。そこまで正確に測定できるものでなくても、なんらかの点で、客観的に見て、明らかにすごければよい。専門的な知識がなくともそう思われるようなものであればなおよい。人目からみてヤバい曲を作りまくることができれば、無視されることはまあない。逆にクソマズラーメンを食う道理がないのと同様、大抵の人にとっては、あなたの曲を聴く合理性が、全くもって存在しない。実力主義の人は幸運である。あなたが手を下すことなく、雑魚は退場するようにできている。
大半の創作者の、作品を見てもらいたいという想いは、この非合理に抗うということに他ならない。一部を除くと、大体のアマチュアの作品なんてクソマズラーメンみたいなものと言えるので、作品を見て欲しいと願った時点で、非合理を人に強いることになる。市場の原則はさておいて、私の作品にリソースを割いてくださいよ、とするならば、人に強いる前にまず自分である。自分も作品を作るし、見てもらいたい。自分のために作っていて、この世から鑑賞者がゼロになっても続けるが、その情熱と同じくらい見て欲しいから作っている。このわがままを通すためには、非合理に生きる必要がある。そう言った意味で、おれには他人のカスの曲を聴く覚悟がある。金も時間もかけている。だからおれにも付き合ってくれ。交換条件である。
誤解なきようにいうと、資本主義の淘汰の機能を、自分は素晴らしいと思っている。クライアントワークとして音楽を作る際も、音楽イベントに出演する際も、ラーメン屋と同じで、価格、楽曲の完成度、早さ、人柄、なんでもいいがその他諸々の全てを評価の机上に上げて、競争させられているといっていい。人よりもなんらかが優れていれば、仕事をする権利が与えられる。その競争に自分も望んで参加している。そのクオリティを持ってして、もう10年以上も音楽の仕事が来ていることを誇りに思っているし、淘汰され、退場することになっても受け入れることができる。この仕組みが、自分の実力を向上させている。基本的に不満はない。が、市場からの退場ごときでおれが音楽を作ることを止めることはできない。他の方法で生計を立て、音楽を作る。
そこら辺の、どうしようもない創作者の、作品を見てもらいたいという気持ちが叶う世界を自分は望んでいる。理想の世界のルールに沿って自分は生きたい。市場の合理性に逆行することで、自分はその態度を示す。忘れてはいけない。創作者は、鑑賞者に非合理を望むのだ。だから、非合理な、良き鑑賞者になりたい。他人の創作物を、質にとらわれずに鑑賞する行為を持ってして、自分はその非合理を示す。

