The Blue Envelope #62
一人力
#ITBS_text
生前、ECD氏は”どうして無力だと思いたがるのか。あるよ。ひとりにはひとり分。力が。”と言った。この言葉は、選挙に行って一票を投じたが、大局に影響することなく、意味がないと感じてしまった、みたいなケースのように、人間一人の持つ力を取るに足らないものとして感じてしまった人を勇気づける趣旨であろうし、引用される際も大体そういった文脈である。
一方で、自分はこの言葉を、”どんな優れた人であれ、所詮一人には一人の力しかない”という逆の意味でも重く受け止めている。要するに、人を神聖視したり、過剰に憧れたり、度を超えて信用するのは、よくない、ということである。相手を舐め、適当に扱ったり、見下したりするのと同じくらい、相手を過剰に価値のあるものとして扱うことは悪い。どちらも生身の実像からの乖離であり、人間を人間として見ていない点では同じなのである。
いわゆる推し活みたいなものに対しても、前はなんとも思っていなかったが、最近はだいぶ否定的な感情を持つようになった。程よいバランスで適切にできれば良いが、現実はそうもいかない。人間というのはすぐにやりすぎてしまう。一人の人間に心酔し、無条件に見上げるような目線で応援するのは、度を超えると相手をバカにするのと同じくらい、相手の人権を無視することになる。
先週、Massive Attackがフジロックのヘッドライナーとして、ライブ中に力強く政治的なメッセージを発した。情報が氾濫する社会において、K-POP誕生の手前にあった民主化闘争の立ち位置、パランティア批判、軍事行為の批判などが取り扱われた。これに対し、共感した人間の賛辞も、政治を音楽に持ちこむな、とか上から啓蒙してくんなよ、みたいな批判も次々と湧いてきたわけである。我々はどうしても、ビッグアーティストがセンセーショナルに意見を表明すると、発言者ごと過剰に持ち上げたり、逆にミュージシャン風情が知ったような口で偉そうに、といたずらに矮小化してしまったりするのである。
我々は、こういった行為を、いかに重くもなく、軽くもなく扱えるかが大事である。オピニオンリーダー的を持ち上げるようなモデルを自分はよく思わない。一方で、彼らは勇気のある行動者である。それと同時に、あくまでMassive Attackという1ユニットが、Robert Del NajaとDADDY Gという二名のクリエイターが、意見を表明した、という以上でも以下でもない。自分とは立場も考えも違う独立した人間であり、彼らは何も代弁していない。自身で自身の主張をしている。一人につき一人分の力である。彼らの勇気に倣うなら、〇〇が扱われていないから不十分!とか音楽シーンの左傾化が!とか、意見を持たないための逃げとしてのメタ解説ではなく、日和見ではない個人の意見を、できる限りはっきりと持つことである。
この過剰な見上げの危うさは、様々な形で歪みを蓄積し、そしてときおり弾ける。GEZANのマヒトゥ氏をめぐって、性加害を認める声明が出た。相手の人権を踏み躙る最低の行為である。こういったことが起こる原因を、そもそもの構造に帰属するのは難しいが、一つの要素を述べるならば、音楽が付帯することで、1人の人間を過剰に崇め、オピニオンリーダーとして持ち上げてしまう傾向にある、とは言えるだろう。もっと平たくいうと、音楽が絡むと、なんか実像以上にすごく見えてしまうということである。誰からも尊敬されておらず、なんの支持も得られていない暴力的な人間と、カリスマ的であり、支持者がたくさんいる暴力的な人間のどちらにリスクがあるかは明確である。
神の技術を持つコンビニレジ店員の所作を見たとして、感動のあまり膝から崩れ落ちるようなことは起きないだろう。他方、音楽ではどうだろうか。卓越したものを見せられると、我々は大きく心を動かされてしまう。これを創作や、イマジネーションの力としてポジティブに捉えることもできるが、身も蓋もないことをいうと、勘違いをさせやすいメディアなのである。その感動はいとも容易く作品からはみ出し、作者の人格への過大評価にすり替わる。高度に洗練されたコンビニ店員と、ミュージシャンの、人としての価値に本質的な差はないはずなのに、我々は後者を人ごと過剰評価してしまうきらいがある。これを軽視してはいないか。
加えて、カリスマ的な人間というのは、アジテーションの能力に長けている。これに音楽を掛け合わせると、それはそれは大きな虚像を生む。その虚像は実に美しく、そして危険である。膨らんでいるのは影響力であって、当人の尊厳ではない。一人は一人分、というのは後者の話である。ここに例外はなく、影響力と尊前を混同してはいけない。資本主義はその影響力の大きさを金に変えるし、アーティストの側もその虚像の美しさを誇大に示す。推し活をブームとしてカジュアルに取り扱う時勢は、虚像の持つ危険性を棚に上げる。改めて、個々の尊厳の価値を確認し直す必要がある。
創作物と人間性の関係についての自分の意見は過去に書いた通りで、音楽に罪はないから切り離して考えろ、みたいな意見は否定はせども基本的には反対である。創作物に真剣に向き合うということは、無意識であれ意識的であれ、作り手の作為に向き合うことである。創作物は人間性と不可分であり、創作物だけを独立して評価するなどは、そもそも叶わぬ願いである。聴き、金を払うという行為には、作者への評価と支援が既に含まれているからである。我々にできることは、複雑なすべての情報を勘案し、織りこんで、判断を下すことだけである。一人の人間が、一人の人間の尊厳を踏み躙ったという事実を、一人の人間として非難する。これがなかなか難しい。
違法薬物を摂取し続けたアーティスト、素行が悪すぎる文豪、性犯罪をしたロックスター。「ビートルズは聞くくせに、太宰治は読むくせに、〇〇はOKとかダブスタ乙w」みたいなロジックはとんだ詭弁である。我々はあらゆる要素を総合的にみて、評価を決めるのだ。その複雑さから逃げることも、よいところだけをしゃぶって、都合の悪いものを捨てることも叶わない。そいつが大麻を吸おうが、人を殺そうが、総合的に判断して聴くべきと思うなら聴けば良い。が、そこには責任が伴う。音楽に罪はないから、GEZANの曲は関係ないので聴きます、といった安直さを自分は肯定しない。そんな都合の良い、叶わぬ論理にすがるべきではない。全てを総合的に判断して、その上で、なお聴きたいと思うなら聴けば良い。音楽を聴くということは、間接的かつ抽象的に、その作り手と人間関係を持つということである。全てが正しさのみでできている聖人君子はいない。が、その前提であなたは交友する人間を決める。その判断の責任は自分自身にある。音楽も同じである。
巧みなアジりや、音楽の作り出す虚構と上手に向き合うためには、こちら側が自分自身の、一人分の力を信じることが必要である。すごい演奏をしようが、とんでもない作曲の才能があろうが、世界記録を樹立し金メダルを取ろうが、それはそれとして、自分と対等な一人の人間である。努力や功績は正しくリスペクトされるべきではあるが、尊厳においては一人は一人分である。どこぞの天才と、あなたのパーソナリティが等価であると信じることから、悪しき構造上の問題の解体を始めることができる。
1人のヒーローがブレイクスルーを起こして、世界をよい方向に導く、なんてことは多分もう起こらないように感じる。世の中は、少しずつ良くなるか、少しずつ悪くなるかしかない。センセーショナルなものではなく、地味で、かつ複雑である。その前提に立った上で、個々人が、自分の価値を、誰とも等価であることを認め、他人を過剰に評価したり、見下したりすることをやめる。それをもってして、はじめて、世界は驚くほどゆっくりと、少しずつよくなる。というのが自分の考えである。


