#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
人間と作品
創作を、その作り手の人間性の発現のために活用しよう、というのが私の主張である。そして、そんな話をすると、すぐに「作品と人間性を一緒に考えるのはダメだ」「作品は作り手から切り離されて評価されるべきである」みたいなことを言う人が出てくる。こういった考え方を否定するつもりはないが、往々にして、善悪や倫理観の話とパーソナリティ摂取としての鑑賞の態度がごちゃ混ぜになっていることが多いので一旦整理しておきたい。
例えば、何気なく好きになって愛聴していた音楽の作り手が、実は稀代のクソ野郎で、とんだ鬼畜だったことを後から知った、みたいなシチュエーションがあったとする。かなりの割合の人が気分を害するであろう。その感情の正体を考えていくと、結局は、倫理に反した人間を支持してしまったことに対しての悪の意識であることがほとんどである。間違ったことをした悪いやつに対して、良い感情を持ってしまったことで、自分も悪しき人間になってしまう。ここで、いや、自分は決して悪い人間ではない、と信じたいがために、悪人を肯定してしまった自分への免罪符としてのロジックを求め、人間と音楽を切り離そうと試みるのだ。こうやって、創作物を独立して取り扱おうとする態度は、クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)と相容れない。そして、自分はこれをちょっとズルいんじゃないかと思っている。
我々は、殺人鬼が美しい音楽を作る可能性があることを認めないといけない。音楽を聴いて美しいと思った。そして、後日実はその作り手は人を殺していたことを知ったとする。それは事実以上でも以下でもない。殺人をした人間がこんな美しい音楽を作れるはずがない、と思うのも、こんなに美しい音楽を作った人間が人を殺せるはずがない、と思うのも、どちらも完全に誤りである。ただ、そいつが人も殺したし、美しい音楽を作ることができた、という事実のみが存在している。なんならその美しさの源泉は人を殺してしまうようなマインドにある可能性も十分にある。社会的に悪しき人間に収入や社会的価値を与えてしまう、という部分を別の問題として一旦棚上げすると、鑑賞の態度としてはその接続から逃げることはできない。
音楽にはパーソナリティが宿っている、という主張に本当の意味で向き合うとするならば、端から端まで清廉潔白な音楽なんていうものはないといっても良い。換言すると、自分にとって完璧な音楽というものは存在しないということになる。なぜならば、どんな人間にも、絶対にいい部分と悪い部分があるからである。法を犯しているかどうかという観点以外にも、鑑賞者の価値観に照らし合わせた時に、相容れない部分、認められない部分、受け入れ難い部分が必ず創作者にも存在している。必ず存在しているそれらを一切摂取したくないが、創作物だけは楽しませてくれや、というのはずいぶんと虫のいい話である。
創作物を鑑賞するという行為を、ほぼ自分は人付き合いと同じ感覚で捉えている。他人である限り、自分とあらゆる価値観が一致することはありえない。ありえないが、共に社会を形成し、仕事をし、友達を作り、恋をする。いいやつだと思った人間が、どうしようもなくカスだった、なんて場面は、生きていればいくらでも遭遇する。こういった場合に、悪人を肯定してしまった自分への免罪符をいちいち求めても仕方がない。友達が実は闇バイトをしていたなんて場合も、説得してやめさせたり、話もせずに即刻縁を切ったり、その件に触れることなく関係を維持したりなど、様々な対応が考えられるが、その友達の犯罪行為以外の、善良な部分だけを選択的に摂取してやろうなんて思わないはずである。であるならば、創作物もそうあるべきであると思う。清濁併せ持った人間のパーソナリティが注入されている訳であるから、鑑賞をするということは、その清濁を併せ呑むことになる。濾し取って清だけを獲得したい、というのは、人間関係でそんなことを求めたらわがままであるのと同じで、作品においてもそうである。
絶対に不祥事を起こさない芸能人だけ応援したいと思うのも、好きな作品の作者の失言でがっかりしたくないというのも、意見が異なることはなく、自分のことを100%理解してくれるパートナーが欲しいと願うのも根は同じである。残念ながらその願いが叶うことはない。他人だからである。どの道、人と向き合うことにかわりはないのだから、根性を見せ、相容れない部分に向き合う覚悟を持つべきである。
ここで唯一、人生において、自分と意見が違うことがない創作者が1人だけいる。自分自身である。創作をして、取り出されたパーソナリティをセルフ鑑賞する。それはまごう事なく、自分と完全に価値観を同じくする者から取り出されたものである。アンコントローラブルな他人の人間性に嫌な思いをする危険性のない、ただ1つのユートピアである。とはいっても、自らもまた人間であるので、自身の作品を通して、己の良い部分と悪い部分をまざまざと目の当たりにすることになる。他人がそうであるのと同様に、自らもまた、期待していたものから少しずれている。クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)を通じた、この自己観照の視点を持った上で、他人や、他人の創作物の都合のいい部分だけを齧って、残りは捨ててしまおうなんて思えるだろうか?