The Blue Envelope #34
#C4P_demo
馴れ合い
このC4P作文は常にネットに公開しながら執筆を進めている。そのおかげで、リアルタイムで内容に対するツッコミが入り、それを参考にしたり、無視したりしている。その中で最も多く、かつ興味深い意見が「そんなの馴れ合いじゃん」といった類の意見である。
ここで使われる”馴れ合い”という言葉は揶揄が目的で、ポジティブに用いられることはない。C4P的な態度なんてものは、悪い意味での馴れ合いであるから、悪しき考え方である、という論旨の批判は数も多く、その内容も様々な理由で無視できなさそうであったので、一旦現時点での見解を示しておく。
批判をネットに書いている10人程度のアカウントをピックして活動を観察していると、馴れ合い批判にはだいたい二つの発生源があるように見える。ひとつはボカロ(ニコ動)/pixiv的な巨大プラットフォームにみられる勝敗ゲームの文脈、もうひとつはポップでキャッチーなものとは遠い位置で創作をしている求道者的な文脈だ。
割合としては前者が圧倒的に多く、そして非常にわかりやすい傾向がある。閲覧者が多い巨大プラットフォームでは、参加時点で多くの人が数字(再生・ブクマ・フォロワー数etc.)やその後の市場での活躍といったC4Q的な勝敗のあるゲームに、少なくとも片足は突っ込むことになる。そこで結果が出なかった時に、成功者は実力だけじゃなく「界隈」「相互」「繋がり」で上がっている、自分は実力で勝負しているのに、馴れ合い勢がズルしてる、みたいな世界観が醸造され、C4P的な価値観を負けた側が作った逃げ道みたいなものとして解釈してしまうのだ。自分の主張を、「勝てないだけなのに、別の価値軸を作って自分を慰めようとしている腰抜けどもの慰め」、すなわち「馴れ合い」とみるということである。
ややこしいのが、結果が出なかった人ほど、市場ゲームのルールへの執着が強くなるように見えることである。まさにこういう人をエンパワーメントするために、「それは市場ゲームモードの内面化の結果だから、違う考え方をした方がいいよね」という提言をしたいわけであるが、結果として、話を聞いて欲しい層に逆に刺されてしまうといった状態を招いているのだ。
別章で述べたが、基本的に巨大プラットフォームに作品をアップロードするという行為は、ラーメン激戦区に謎のアマチュアがまずいラーメン店を出すのと構図としては同じである。繰り返しになるが、基本的に、大抵の人にとっては、あなたの作品を鑑賞する合理性が、市場においては全くもって存在しない。勝利する方法は、客観的なクオリティを、市場に適合する形で十分なレベルにまで引き上げることである。自分がしたいのは、それがもし達成できなかった時にどうすべきかという話である。
ここで改めて、「馴れ合い」を3つのタイプに分けてみる。
一つ目は、市場の中での馴れ合い——というより相互ブーストの戦術である。それが良い悪いの議論はさておき、身内でいいね的なアクションを取り合い、客観的な数字を”盛る”行為は少なくともC4Qの勝敗ゲームに属する動きで、C4Pの話とは全く別物だ。これは談合とかカルテルとかと同じで、度を超えると単純に不正であり、市場ゲームにおいてのわかりやすいチートである。やっている側がどう思っていようが、市場のルールの中で数字が評価に直結する以上、ズルと見なされても仕方がない。これは批判されるポイントも明確だ。公平性の毀損である。
二つ目は、社交としての馴れ合いである。ライブ後、対バン相手に「ライブめっちゃよかったっす!」と言う類のやつだ。飯を奢ってもらった後に「ごちそうさまでした!めっちゃおいしかったです!」とメッセージを送るとかでもいい。本心の場合ももちろんあるし、そうではないときもある。いきすぎるとイエスマンとして相手をつけあがらせることになるが、大体の場合はこの手のやりとりは社会においては必要だと考えている。こういうことを書くと、「本音で語り合えない社会はカスだ!」と言われたりもするが、本音は別途伝えればいいだけである。世の中のほとんどの会話は社交プロトコルとしての馴れ合いでできている。むしろそれがないと、社会維持なんて無理である。
三つ目が、自分のいうC4Pの交換である。それは褒め合いでも相互宣伝でもなく、作品を媒介に「自分の反応」を差し出し合う観測の交換だ。もっと単純に、クオリティを度外視した交流と言っても良いだろう。競技者としての大谷翔平がそこらへんの素人と野球をするメリットはないが、一人の人間としてならそこらへんの子供とキャッチボールをする意味も時にはあるだろう。芸能人が芸能人としか連まないわけでもなければ、才能のないポンコツがトップアーティストと親友であってもなんの問題もない。それと同じで、すごかろうが、すごくなかろうが、作品を相互鑑賞することは許される。
問題は、この三つが、雑にみるとだいたい同じに見えることだ。作品を持ち寄って、感想を言い合う。仲良くする。笑う。飲む。「C4Pって結局、馴れ合いでしょ」と言われ、なんであんな雑魚が格上グループに入れてるんだ、とか、やっぱ関係者とのコネがないとダメですね(笑)、とかそういった態度に行き着いてしまう。一つ目はインチキなので論外、2つ目は社交の問題なので好きにしてください、3つ目はやらせてくれ。自分の主張はこれだけである。
敗北処理としての馴れ合い揶揄は魅力的である。自分も自らの社交性の低さを棚に上げて、軽音サークルに入ってるやつはダサいから、みたいなスタンスを取っていたりした。群れてなおレベルの低いやつをバカにし、自らのクオリティをあげることに腐心した。今思えば、入ればよかったのだ。この手の妬みひがみを乗り越えて、正しく馴れ合うコツを身につけていく方が生産的である。分かっている範囲で何点か示す。
一点目は、参加/離脱の自由を死守することである。作品を見せること、そしてそれを見ることは市場からすると非合理であるので、強制はダメである。なぜならこの社会は資本主義であるからだ。合意がない場で勝手にやってはいけない。自分が「曲を作れ、今すぐ公開しろ」と言うのは、市場に投げる話ではなく、合意された交換の場を設計しろ、そして自分から動け、という話のつもりである。
次に、反応の義務を消すことである。褒める義務も、貶す義務も、アドバイスする義務もない。社交的な意味での「良かったです!」だけ言って終わる自由も、「今日はあまり分からなかった」と言って帰る自由もある。ノーコメントでも成立する。鑑賞されただけで、もう非合理を超えたという目的は果たされている。おまけとして、感想を言ったり、必要や要望があれば、そこでようやくクオリティのジャッジをすればよい。
もう少し具体的な話をすると、宣伝と切り離すことも重要である。宣伝とは市場活動の権化のようなものであり、ここが巨大プラットフォーム勢の怒りに直結している。作品を交換すること自体が「数字を伸ばすための共同作業」に見えた瞬間、それはインチキの始まりである。C4Pの交換は、宣伝ではない。拡散の義務もない。フォローの義務もない。それは名刺のようなもので、渡すが、受け取った側は財布に入れて帰っても良いし、目の前で破り捨ててもいいし、神棚に飾っても良いし、最寄駅のホームでゴミ箱に放り込んでも良い。
議論し損ねた、ポップでキャッチーなものとは遠い位置で創作をしていて、馴れ合いを嫌う人の話であるが、こう言った人は往々にして求道者的な側面が強い。自分がなれなかったが、かつてなりたかった姿である。二兎は得られないとつくづく感じる。
彼らにとって交流は、設定したよさの追求に混ざるノイズのように見える。が、C4Pは(推奨はせども)必ずしも社交を要求しない。自分の作品を自分で観測するだけでも成立するし、比較対象も生身の友達である必要はない。匿名の作品群でも、過去の作家でもいい。相互フォローの輪に入らなくても、パーソナリティは取り出せる。難易度は高いが、実現可能であろう。大変であるから共感者が少なく、それがまた彼らを孤独にさせるのだ。

