#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
いいのができたら
関西でやっている音楽ワークショップ「Potluck Lab.」、神保町の美学校でやらせてもらっている「サウンドシェア」、はたまた京都精華大学での非常勤講師の活動において、自分は常に、”作った曲を人に聴かせろ”と言い続けている。
理由は様々であるが、ざっくりいうと、自分から取り出したものを相対化すべきであるから、そして、そのためには作ったものを手放す行為に慣れるべきであるから、という説明になる。だから、”作った曲を聴かせ合う場を設ける”ということだけをやっている。大学での授業を除くと、自分は、クオリティ向上のための技術指導みたいなものはやっていない。
ここで、非常によくある発言、あるいは態度がある。それは「まだ人に聴かせられるレベルじゃなくて……」といった感じか、あるいは「いい曲ができたら持ってきます」といって、作った曲を人に聴かせることを憚るようなものだ。クオリティ面において、人に聴かせても良い最低限の品質のラインみたいなものが暗に存在していて、それを下回っていると恥ずかしい、あるいは失礼であるという考えである。現状は及第点をまだ超えていませんが、いつかその線を超えたら人に聴かせます、というスタンス。
セルフ設定したイマジナリー基準線を超える。はっきりといってしまうと、そんな日はこない。なぜなら、そんな線は存在しないか、あるいはもうすでに超えているからである。クオリティ面でなんらかの基準を設定して、至っている至っていないで行動を変えるのは、典型的なC4Qイデオロギーの発現である。
ごく簡単な思考実験みたいな話をしてみよう。あなたが作った曲がここにあり、その曲を今すぐ人に聴かせるか、一ヶ月先送りにするかを選べるとする。一ヶ月もあれば、それがわずかであっても、その楽曲のクオリティを高められる可能性が高い。楽器を死ぬ気で練習すれば上達するし、名盤を3枚聴き込んで音楽的素養を高めることもできるし、金を貯めて機材をアップデートすることもできるし、知らなかった和音を覚えて使えることもできるであろう。ということは、クオリティのみを考える場合、人に聴かせるのは先送りすべきなのである。より良い状態で人に聴かせるのを良しとするのであれば、じゃあもう一ヶ月、さらに一ヶ月と、先送りをして、死ぬ間際に、クオリティがMAXになった状態で人に聴かせよう、という話になる。死ぬ寸前までクオリティが向上することはないとしても、じゃあ自分の音楽的能力の全盛期まで寝かして、ピークに達したタイミングで人に聴かせよう、といったことになるのだろうか。じゃあその頂点はいつ?頂点まで行かなくて良いとしてもどこで手打ちにして人に聴かせようか。
創作行為を行うと内的なパーソナリティが外部に取り出される、というC4P的な価値観でいくと、曲を人に聴かせない、という状態は取り出したものを人に見せていない、という状態である。これは限りなく、取り出しが完了していないといってよい。人に聴かせるのを先送りにするということは、パーソナリティの発現を先送りにするということである。この機会損失を重く見よう、というのが自分の意見である。人に聴かせるのを先送りすると、クオリティが向上するかもしれない。一方で自身の個人性の確認もお預けである。さらにいうと、自身の個人性、要するに自らのオリジナリティに向き合わずに、向上させ、到達した、クオリティ上の全盛期って、そもそも本当に全盛期なの?
解決は簡単である。今すぐ、あなたの創作物を誰かに見せよう。親でも友達でも、ネットでもいい。クオリティはカスでいい。作りかけでも構わない。いいのができたら?もう今手元にあるそれがいいんです。
クオリティの基準設定や、相対的な競争が必要なのは、市場に晒して、その楽曲に資本的価値を与える時のみである。例えば、入場料が三千円のライブを開催して、内容がその価格に値しなかったら、客は来ないか、あるいは来場した上で損したなあと思うわけである。音楽サブスクリプションサービスではユーザーの時間という名の資本を取り合っていて、競争力のない曲は、文字通り、タダでも聴かれない。こういった”市場競争の場”において成果を上げるべく、クオリティを相対化し、その向上に努め、基準に達していなかったら参加を先送りにする、という考えであるならばスマートである。自分が市場競争をしたいのか、そうでないのかをうやむやにして、混ぜてしまうからややこしい。ちゃんと分けて判断すべきである。創作そのものの面白さと、市場競争がごちゃごちゃになっていることから生じる誤解は多い。再生数が少ないから、自分の楽曲は価値がない、とみなすのは典型的なそれである。市場競争力はない。が、行為としての価値はある。私の催す会や、そこで曲を聴かせる行為は、市場への参加ではないという話である。
「みんな曲を作ろうっていうけど、たまたまうまくいったお前のポジショントークじゃないか」といった批判を向けられたことも何度かある。自分がうまくいっている、という認識自体が、音楽で飯が食えているとか、なんらかの評価を受けているとか、市場的価値に照らされて判断されたものである。この批判自体がC4Q的な考えであるとも言える。おれはクオリティをかなぐり捨てて、人気もなく、金も稼げない創作でもなお残るものの話をしている。
自分の主張は、内的なパーソナリティが外部に取り出すために創作行為を行う「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)」を重視すると面白いよ、という提案をしているにすぎない。やってみたが面白くなかったというクレームは受け付けていますが、やってみたが金も稼げず人気も出なかった、という文句は無視します。だってそんな話は一言もしていないから!