The Blue Envelope #1
このエントリを持ってして、in the blue shirt有村によるメールマガジン”The Blue Envelope”が始まります。
#ITBS_text
これは何?
ブログもだいぶ実時間からビハインドしているのに、なんでこのタイミングでテキストコンテンツを始めるのか、という話であるが、主に2つのモチベーションに分けられる。
1つ目は、とにかく人に向けた文章を書きたいという意欲である。既存のブログはあくまで日記という体裁で、それはそれで気に入っているが、そうではないフォーマットで文章を書きたいという単純な欲望が沸いている。日記はどこまで行っても(いい意味で)ある程度はパーソナルなものでありつづけるので、それはそれとして、もう少し外向きの、人に向けたテキストをネットに置きたくなってきたのである。
インターネットにおいて最も意識的に取り組んだ外向きテキスト体験はTwitterである。多動で口数の多い自分の溜飲を下げ、黙らせるためのおしゃぶりとして、10年以上首尾よく機能している。学生の頃にはじめ、今に至るまで、思い入れが下降線を辿っていることは認めながらも、それを愛してやまなかった自分であるが、我々のような種は、もうすっかり外来種に駆逐されてしまったわけである。なんと、今や知らない人間のゴミのようなポストが勝手に表示され、文字数制限の美学を解さない冗長な文章や広告に溢れている。なんならそう奴らの方が勢力が強いのである。そしておれもまたゴミなので、そのゴミコンテンツを摂取し、ゴミ感情を持ってしまうゴミループに巻き込まれている。テキストバイオハザードである。カスすぎる!
とはいっても、そんなな掃き溜めのような場所になってなお、楽しかったあの頃を度々思いだしてしまって、見るのを完全に止めることはできない。初期Twitterという、インターネットにたわわに実ったジューシーフルーツに貪りついた成功体験で脳が焼けており、今も成仏できずに地縛霊としてブルースを奏でているのである。そんな既存の短文SNSどもに、ゆっくり考えた文章を置き、ゆっくり咀嚼することを求めるのは明らかに困難である。作法は変わってしまった。
そうではない場所を作りたいし、さらにいうとリポストなどのワンクリックで拡散できるような環境も勘弁願いたい。”バズる”仕組みがおれたちを幸せにしたことなんてあっただろうか?そんな要件で、ちょうどいい形態を模索しこうなった運びです。
もう一つは、文フリに何らかの形で出展したいなと考えていて、「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」というタイトルのエッセイにしようとしているのですが、いきなり数万字の作品を書こうとしても計画倒れになることが目に見えているので、モチベーション維持のため、それの草稿みたいなものを置く場所にもしたいとも思っています。要するにこのメルマガを読んでいれば、収録されるコンテンツが、デモ版ではありつつも、何らかの形で全て読めるということです。(いつになるかわからないが、いずれ出るはずの)本を買う必要がないという画期的なシステム!音楽活動においても、自分のアルバムの収録曲はリリース前にクラブなどでかけまくるわけであるので、それと同じです。音楽でやってきたことをテキストでもやる。しっくり来ている手法はどんどん横に展開すべし。このメルマガの更新が途絶えたら、文フリ出展も挫折したんだと思ってください。
#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
執筆中の「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」は今のところ構成すら決まっていない。とにかく書いて、メルマガに放ち、そして後から編集でどうにかする。テーマだけは明確なので、それを示すための序文を書く。
はじめに
ここ数年、創作との向き合い方について頭の中でもやもやと考えてきたことを、なるべく人に伝わる形で書き残しておきたいと思い始めている。まずは自分なりに整理するために、二つの言葉を定義するところから始める。
クオリティを目的とした創作を 「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)」 と呼ぶ。
ここでいう“クオリティ”は、客観的に認識できる結果と置き換えることができる。なぜなら、能動的に向上させようと思ったら、定性的であれ、定量的であれ、巧拙を認識する必要があるからである。スポーツ選手を例にするとわかりやすい。タイムや打率、得点数といった指標で結果の優劣が測定でき、評価される。その優劣から逃げずに向き合い、研鑽を積む──それが C4Q の態度だ。そこまで定量的でなくてもよく、ピアノを習っていて、ソナチネが大体いい感じに弾けるようになってきたとか、前より息を切らさずに10km走れるようになってきたとか、その程度でもかまわない。
要するに、C4Q的態度下では、何らかの指標を持ってして、ある程度は客観的に比較ができるということである。記録を競う競技であれば言わずもがな、そうでなくても、「再生数1億超え!」とか「来場者数1000万人!」といったようなKPIによるベンチマークが比較的容易であるわけであるし、君は英語が得意だから上級クラスに入れてあげましょう、といった使い方ができるわけである。
逆に言えば、結果が出ていない、すなわちクオリティの低いものを、基本的には芳しくない状態とみなすということである。C4Q自体は素晴らしいが、他者の低クオリティ状態に石を投げるようなマインドに陥ることだけがよくない。偏差値が低いやつを劣っているとみなし見下す学歴厨のようにわかりやすいものもあるし、「プロになれないのに競技を続けて何になるんですか」「売れていないアーティスト活動に意味はない。もうそろそろ現実を見ようよ」といったように、低クオリティの活動は意義があまりないとするような考え方も、C4Qイデオロギーを内面化した態度の表れである。
一方、個人性を取り出すための創作を 「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」 と呼ぶことにする。
創作物を“内的なパーソナリティが外部に取り出されたアウトプット”と捉え、自己理解や他者との違いを知る道具として活用する。C4P では、C4Q における「結果」に相当する外部評価をそもそも設定しない。評価軸は、自分自身によるパーソナリティ理解の精度のみである。砕けた言葉で言うと、「らしさ」の理解に努める態度である。他者との比較はクオリティ軸では行わず、創作物を介したコミュニケーションを通してパーソナリティの差異を確かめ合う。他者の「らしさ」との相対化によって、自己の「らしさ」への理解をより高めることができる。
どこからが創作行為なのかというハードルも極限まで下げる。適当に着たTシャツ、話半分に送った友達へのライン、腹を満たすために適当に作られた飯、適当にザッピングし、さしてみたいわけでもないのに選ばれた、流れているだけのテレビ番組。行動を選び取った時点でアウトプットであり、自己の発現である。らしさの現れを自認できれば手段は問わない。いかに意識的に、それをできるかだけが大切である。
そこまで判定を甘くしているので、私のいう創作は、辛さや苦しさとセットにあるものではない。重要なのは自覚することで、行為自体は暮らしているだけでやっているからである。ここでさらに追加で、意識的に”世間でいうところの創作活動”をするとよい。絵を描く、文章を書く、音楽を作る、工作をする。中身も程度もどうでもよく、能動的にやっていればよい。ここで、クオリティが伴っていると、取り出せる量が増えて得である。気をつけないといけないのは、取り出すだけでは意味がなく、取り出したものを積極的に認知しようとする態度こそがC4Pである。C4QとC4Pは両輪であるべきなのだ。そして、世の中はこちらの片輪がいまいち足りていないように思っている。私は音楽が好きなので、便宜的に「みんな音楽を作った方が良い」と言っている。”音楽”の部分は任意の創作行為で代替してもらって構わない。
私は、この 「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」 の比重を今よりもう少しだけ増やすことで、人生をより豊かにできると考え、その実践に注力している。本書『クリエイト・フォー・パーソナリティ』は、その考えと、そこへ至るまでの経緯を綴ったエッセイ集である。