The Blue Envelope #21
#C4P_demo
へぼさの民主化
最近は日常的に懸垂をしている。10回3セットを軽々とやるのが目標であるが、まだ先は長い。しかしながら、懸垂を続けることで確実に人生が良くなっている実感がある。やっぱり運動は大切なんですね、30代半ばにして痛感しましたよ、といった類の一般的な話がしたいわけではない。おおげさにいうと、自分が思う、よい人生にするための実践として、懸垂をしなければならないという強い信念があるからやっているのだ。
ど平日の昼間、頃合いのよい時間に、懸垂をするのにちょうどいい鉄棒のある公園まで歩いていく。鉄棒にぶら下がり、限界回数まで懸垂をし、1分休憩する。それを3回繰り返し、ベンチに座ってダラダラしたのちに帰宅する。やることはただそれだけである。
限界回数まで、というと聞こえはよいが、悲しいことに最初は1回できるかできないかのところからのスタートであった。中肉中背の30代が鉄棒にぶら下がり、わずかな回数へこへこ上下して、ハアハア言いながら帰っていく。ワークアウト、トレーニング、などと呼ぶにはあまりにも情けなさすぎる。
冷静になって、客観的に見ると、お世辞にも見栄えが良いとは言い難い。まずこいつはこんな時間に仕事もせずに何をやっているのか。定職についていないのか。なんでそんなに大してできもしないことを、こんな公共の、一目のある場所でわざわざする必要があるのか。なんのためにやっているのか。懸垂をやっている自分をみて、通報する奴は流石にいないだろうが、不審さがゼロであるとは言い切れない。
例えば、会社などで、中年の同僚が「最近健康のためにランニングをしてるんですよ。そしたらハマっちゃって、今度ハーフマラソンに出ようと思うんです」と言っていたとして、それに対して、健康的でいいですね、くらいの感想を持つのが普通であろう。「ジムに通い始めたんです」でも似たようなものである。よく聞く話だし、ヘルシーで良いことであろう。他方、「最近健康のために公園の鉄棒で懸垂をしてるんですよ」となると、他と比べて、ちょっとこいつは変な人かもしれないな、と思う人が増えるはずである。ランニングやジム通いはよくて、公園での懸垂はなにか不審さを帯びている。この正体はなんなのだろうか。
第一の理由は、単純に人口の問題である。あなたのまわりにも、おそらく一人くらいは健康のためにランニングしている人がいるだろう。じゃあ30代で、平日の真っ昼間に1人で、大して回数もできない懸垂を情けなくやっているやつがどれくらいいるだろうか。まあほとんどいないであろう。言ってしまえばこの差がほぼ全てである。単純にマイノリティは不審がられる。条件を変えて、鉄棒にぶら下がっている高齢者がいたらどうだろう。朝6時に、タンクトップのおじいちゃんが散歩ついでに鉄棒でぶらぶらしている。これを不審がる人はいない。なぜならそこら辺で見かける、ありふれた風景だからである。単に前例があれば人は安心するし、ないと変に感じるだけであるのだ。
残りの理由は、クオリティの低さへの抵抗感であろう。もうすでに書いたが、芸術系の大学で講師をやっていると、すごくないものをやる意味が見出せていない学生にしばしば出会う。同世代にすごいやつがいっぱいいて、それに比べて、自分は優れていないから、やる価値がない、恥ずかしいといった思考に陥っている人が本当に多い。へぼいものを世に開示するという行為に対して、意義が感じられない、勇気がでない、恥ずかしい、と感じるのは、多少は仕方がないとも言えるが、にしても行きすぎているように感じる。確かに、SNSなどですごいやつがいくらでも参照でき、いわゆる井の中の蛙として勘違い野郎でい続けるには少々厳しい時代である。それどころか、低年収、デブ、ハゲ、ブス、みたいなコンプレックスに関わるようなものを見せ物的に消費するコンテンツで溢れている。ふかしても簡単にめくれる時代ではあるが、実際問題、自分のへぼさを開帳することを封じられたら、大半の人はなにもできなくなってしまう。
このテキストの最大のモチベーションは、世のC4P濃度を増やしたいということにある。他に代替されようのない、それぞれの個人性を取り出すために創作をする。そのための第一歩として、創作は「すごくなくてもやる意味あるで」とプレゼンする手段を持たないといけない。主観的に、自分の範囲で成長できればいい、みたいなクオリティの高低の話以前の、もっと本質的な部分に意義がある。あなたのパーソナリティはあなたにしかないから、ドへぼの段階でもすでにやる価値がある。この考え方を、どうやったら人に納得してもらえるかである。
要するに、C4P的な態度を是とする自分の信念を貫くには、人口が少ないことはやりたくない、へぼいことはやりたくないというそれぞれの感情に対して、一切気にも留めていない状態でいなければならないのだ。へぼいことをさも当たり前のように開帳すること、それができる人口を増やすことが今の世には必要である。ある程度まで人数が増え、ありふれたものにさえできれば、誰もなんとも思わなくなる。へぼさの民主化の達成のためには、へぼを増やさないといけない。みんな、なんでもいいから、人前でへぼいことをしてくれないか。それが善良な世界に繋がるんや。
平日の昼間に、大通りに面した公園で、中肉中背の30代が鉄棒にぶら下がり、わずかな回数へこへこ上下して、ハアハア言いながら帰っていく。こんなことは当たり前で、取るに足らないことである。そう言い切れない人間に、この文章を書く資格はないのだ。

