The Blue Envelope #43
#C4P_demo
ショッピングモール
高校生のときに、住んでいた兵庫の西宮にガーデンズという巨大ショッピングモールができた。今津線も宝塚線もカバーするターミナル駅としてはいまいちパッとしなかった駅の大開発ということで、それはそれはもうできる前から大ごとであった。完成してからも、駅前のバーミヤンでバイトをしていた関係で、何かにつけてガーデンズに行っていた。都会にしかないようなセレクトショップが入っていて、バイト代を握りしめて服を買いに行った。
大学生の時に、住んでいた京都の桂に巨大なイオンモールができた。こちらもいまいちパッとしなかった桂川エリアの一大開発であった。周りにマンションなども建ちまくり、なにか勢いというか、ムーブメントみたいなものを感じた思い出がある。素晴らしいことに映画館が入っていて、映画のためだけにシティに行く必要がなくなった。
日本の街を田舎/郊外/都会と分類した時に、それぞれの共通の物語みたいなものは実はあまりない。自分は明確に郊外の出身であるわけだが、この3つのどこの出か、というのが人格形成に与える影響は非常に大きい。同じカテゴリで育った人間と、そうでない人間では、共有できる体験にだいぶ差があると感じる。
住んでいる街に巨大なショッピングモールができるという体験は、自分と同世代の田舎-郊外に住む人間にとっては、地域を超えて共有できる貴重な物語である。自分の住む町に大きな変化が起こる。ワクワクしたり、生活が便利になったりといった好意的な感情を持ったり、画一化を憂いて嫌悪感を抱いたり、リアクションはさまざまであるが、とにかくモールの誕生によって、町の姿がドラスティックに変わるわけである。
自分より上の世代は、こういった都市の変容の体験を、インフラ開発で体験している。子供の頃に明石海峡大橋が開通したことをよく覚えているが、巨大な橋がぶち建てられて、本州と四国が車で行き来できるようになる、なんてことはその際たる例である。道路でも線路でもいいが、存在しなかったインフラが爆誕して、生活にポジティブな変化が起こるという体験は、他に変え難いものであろう。公共工事で、明らかに暮らしの利便性が改善する。これは自分の世代ではなかなか体験できなかったことである。
ここで問題が一つ浮かび上がる。自分の下の世代は、なににぶち上がればよいのだろうかということである。単純に人口分布の問題で、一部の都会を除くと、今後巨大開発がバンバン起こるとは考えにくい。開発どころか、インフラの維持で精一杯で、なんなら縮小していくことになる部分もあるだろう。維持は、その大変さとは裏腹に、物語を生みづらいという性質がある。自分はショッピングモールを通して、開発のワクワク感の幻をかろうじて見ることができたが、しょんぼりしていくだけの郊外-田舎の風景に、普通の人は耐えられないのではないか。
近年、大阪の行政主導で、てんしば広場やグラングリーンなど、都市型のピカピカの公園が作られた。どちらも見た目も居心地もよく、遊びに行くとなかなかよい気持ちになる。これを下の世代における、開発による成長の記憶とできるならばよいが、田舎/郊外/都会における、郊外のカテゴリ内の、上澄み以上の格の駅でないと難しいだろう。シティにのみ許された開発様式で、モールのような汎用性はない。土地を超えて共有できるような物語を作り出すのは大変であろう。
ショッピングモールは、あまりに商業的すぎるがゆえに、「どこも同じ風景になる」薄ら寒さと共に、なにもない町の象徴みたいに捉えられることも多い。しかしながら、ふと、これは世代最後の成長の物語であったのではないかという恐れを感じてしまったのだ。
成長を身体的に享受しづらくなった下の世代が「ぶち上がり」をどこに求めるかを安直に考えると、東京に行くか、デジタル領域に行くかの2択になってくる。
都内だけは、本当にずっとなにかが開発されていて、巨大なビルが、商業施設が、コンセプチュアルな場が、誕生し続けている。東京に行けば、この開発による、なんらかの爆誕の物語の一員になることができる。巨大な資本が介入し、常に開発できる土地がないかを探している。よい場が見つかれば、すぐになにかが建つ。若者が都会に行きたがるのは至極真っ当に思える。
デジタル領域にもまだ可能性はあるだろう。もう最近はメタバースなんていう言葉を聞く機会も減ってきたが、discordなどでのクローズドなオンラインの非同期コミュニケーションとそれに付随する文化は、都市開発に匹敵するアツさがあるようにも思える。しかしながら、デジタル空間での拡張体験が、都市開発の代替になりえるかはわからない。
親が転勤族だったせいで、そもそも特定の土地に根差したエモが自分にはない。しかし、理由はわからないが、田舎/郊外/都市の内の郊外カテゴリを好んでいて、そこから出たくないという謎の執着がある。ここで、成長の物語なき時代に、郊外で暮らすとはどういうことかという問題に直面するわけだ。自分が前向きな人間であれば、「縮小にも固有の物語がありうる」と信じることもできただろうが、いまいちそうはなれない。開発=外から与えられる物語に頼らずに、自分の場所に意味を見出すという意味で、創作での自己実現に、ある種賭けている部分は否めない。音楽を作り続けることが、どの程度、都市開発のぶち上がりの代替になりうるのかは正直よくわからない。郊外に暮らす大半の人間には、一体なにが残されているのだろうか。

