The Blue Envelope#32
数理モデルはもうちょい頑張ります
#C4P_demo
#ディグ・ダグ
「クオリティ」に対する概念として、「パーソナリティ」という言葉を何度も使ってきたが、正直その曖昧さ、捉えどころのなさを明確にできているわけではない。可能な限り整理しつつ、「個性」や「才能」などの、似通った、馴染みのある概念とはどう違うのかも含めてまとめておく。
明日には気が変わっている可能性は承知の上で、暫定的に「パーソナリティ」とは「選択パターンの総体」である、と言えそうであると考えている。
人は常に選択をしている。朝起きて何を食べるか、どの服を着るか、どの道を歩くか。創作においても同様で、どの音を使うか、どの色を塗るか、どの言葉を選ぶか。一つ一つの選択は些細でも、それが積み重なると、ある傾向が浮かび上がってくる。その傾向の総体をパーソナリティと呼んでも差し支えはなさそうである。
ここで重要なのは、選択の結果ではなくパターンであるという点だ。同じ曲を作っても、そこに至る選択の経路は人によって異なる。Aメロから作る人もいれば、ビートから作る人もいる。コンセプト先行の人もいれば、とにかくジャムる人もいる。何を最初に決めて、何を後回しにするか。何にこだわり、何を妥協するか。完成物だけを見ても見えないが、プロセスを追うことが重要である。
「個性」との違いを説明しておく。個性は他者との比較において際立つ特徴を指すことが多い。「あの人は個性的だ」というとき、良くも悪くも、だいたいは平均から外れていることを意味する。全てが平均的な人間なんてものがいたらかなり特殊であるが、その人が個性的と形容されることはないだろう。一方、パーソナリティは比較を前提としない。全員がパーソナリティを持っている。際立っているかどうかは関係ない。むしろ、一見平凡に見える選択パターンの中にこそ、その人固有のパーソナリティがある。個性的である必要はない。
「才能」とも違う。才能は特定の領域における能力の高さを指す。ピアノの才能、絵の才能、といった具合に。才能がある人とない人がいるとして、その言葉が使われる。しかしパーソナリティに優劣はない。動作の精度が低かったり、不安定であったり、そもそもできていなかったりといった状態に対して、下手である、と言われ、下手であることを克服できない人は「才能がない」と言われる。が、才能の有無に関わらず選択パターンは存在する。下手さの中にもパーソナリティが宿っている。
「スタイル」とも微妙に違う。スタイルは外から観察可能な表現上の特徴を指すことが多い。あの画家のスタイル、あのバンドのスタイル、といった具合に。スタイルは模倣可能である。誰かのスタイルを真似ることはできる。ただし、スタイルの模倣はできても、パーソナリティまでを同じものとして再現するのは難しい。外形を似せることはできるが、どこでこだわり、どこで捨て、どこで妥協するかという重みづけまで揃えるのはほぼ不可能だからだ。仮に真似しようとしても、その真似の仕方自体にも、真似る側の選択パターンが垣間見える。パーソナリティの参照は一朝一夕では達成できない。
「癖」との区別も必要だろう。癖は無意識的で、多くの場合、本人は気づいていない。気づいていたとして、そこに至る選択パターンを認識しているわけではない。貧乏ゆすりをするぞ、と思ってやっていようが、無意識であろうが、これもまた身体動作の結果を癖と呼んでいる。パーソナリティも無意識的な部分を含むが、C4Pを考える上で重視しているのは、その過程と、それを意識化するプロセスである。癖をただ持っているだけではなく、自分の癖に気づき、それを認め、場合によっては活かす。この意識化のプロセスを経て、癖はパーソナリティになる。
では、パーソナリティが「取り出された」とはどういう状態か。これも曖昧にしてきたので明確にしておく。第一の条件は、自分で認識できることである。「ああ、自分はこういう選択をしがちだな」と気づく、あるいは作った曲を聴き返して、「やっぱりこういう展開が好きなんだな」と思う、といった感じである。この自己認識がなければ、取り出されたとは言えない。
第二の条件は、他者との差異が見えることである。他の人の創作物と並べたとき、自分のものがどう違うかがわかることが極めて重要である。神保町美学校での視聴会のモチベーションもここである。違いに優劣はない。ただ違うということを認識することによって、自分のパーソナリティの輪郭がより明確になる。ネガティブな意味での馴れ合いの過程を経てでも、相対化が必要な理由もここにある。
第三の条件は、言語化できなくてもいいが、指し示せることである。「これが自分らしさだ」と完璧に説明できる必要はない。しかし、この曲のここ、この絵のこの部分、と指し示せればよい。具体的な創作物の中に、パーソナリティが宿っている場所を特定することはそこまで難しくない。もし可能であるなら、それが人に伝わればなお良い。
これらの条件は全て揃う必要はないが、いくつか該当していればパーソナリティが取り出されたと言ってよい。逆に言えば、ただ作っただけでは取り出されていない。作って、振り返って、比較して、認識する必要がある。
ここまで書いて、一つ懸念が生じる。どこまでいってもフワフワした概念であることに変わりはないので、客観的な検証方法はない。他者が「それはパーソナリティではない」と否定することもできない。これは認めるしかない。パーソナリティの認識は主観的なものである。しかし、主観的であることと、無価値であることは違う。痛みも主観的だが、痛みを感じている本人にとっては紛れもない現実である。パーソナリティも同様で、本人が認識している限り、それは本人にとって実在する。
もう一つ、パーソナリティは固定的なものではない。選択パターンは変化する。10年前の自分と今の自分では、選択の傾向が違う。それでいい。パーソナリティは変化するものだし、変化を追うこと自体がパーソナリティ理解の一部である。「昔はこうだったが、今はこうだ」と言えること。この変化の認識も、パーソナリティが取り出されている証拠である。
最後に、パーソナリティは「発見する」ものか「作る」ものかという問題に触れておく。自分の解釈で言うと、その両方である。もともと存在する選択パターンを発見する側面と、創作を通じて新たな選択パターンを形成する側面がある。鑑賞だけでもパーソナリティは発見できるが、パターンの形成という意味では自身による創作に敵わない。なので、自分は創作を勧める。穴に宝を放り込むことと、穴を掘って宝探しをすることが同時にできるといえる。宝を撒き散らしながら、もぐらのように穴掘りをして、その穴のパターンがパーソナリティである。究極のマッチポンプである。マッチポンプであるということは、持続可能であることを意味する。

