The Blue Envelope #X2
#ITBS_text
A Conversation with My Sis (Interrupted)
中学生だったある日、姉が突然学校に行けなくなった。最初は一過性のものであろうと思ったがそうではなかった。母はなんとかしようとしたが、通っていた中学やら、横浜市の関連組織の対応は(詳しくは書かないが)最悪であった。解決の糸口すらない状態が長く続き、八方塞がりで暗澹たる思いの母だったが、父は「学校行かないなんてお話にならないだろ」「子供はお前がなんとかしろよ」と言った態度で、全く干渉しようとせず、解決に向けて特に何もすることはなかった。当時の自分はガキで、単純に姉が学校に行かずずっと部屋に閉じこもっているのが嫌だったので、「さっさと学校いけよ」みたいなことを言ったりして、かなり厳しい態度をとっていた。
姉は毎日のように泣いていたし、母もそうであった。学校も父も助けてくれず、頼れるものがなくなった母は、気持ちの良いことばかり言う変な宗教に手を出したりしていた(あいつらは不登校の子供がいることをどこかで知った上で勧誘に来たと思われる。最悪!)。父はそれを全て無視して仕事をした。父母の関係は悪化した。今思うと、この時点で取り返しがつかないところまで来ていたような気もする。薄気味の悪い家であったが、自分はせめて手のかからないようにという意識だけはあった。生まれつき勉強だけはなぜか得意だったので、これでなんとかしようとぼんやり思っていた。姉はなんとか違う市立の学校に転校したが、もはや学校云々だけが問題ではなくなっており、そこまで状況は良くならなかった。
姉が中3のタイミングで、父の仕事の都合で関西に引っ越した。いきなり関西弁が飛び交う空間に放り込まれ、異国のように感じたが、姉にとっては一歩踏みだす良いタイミングであった。関西にきただけでも十分リセットできていたのに、さらに中学からもちょっと遠目の高校に進学し、全てを一新した。知らぬ間に、姉は別人のように明るい人間になっていた。あまりに様変わりした姉との接し方が良くわからなくなり、喋る機会が減った。
このタイミングで父が転勤で釧路に飛ばされた。姉のレール復帰と父の家からの退場によって、あらゆる目先の問題が消滅した(振り返ると、解決すべきあらゆる問題がこのタイミングで冷凍保存され、2025年に爆発しただけにも思える)。依然として自分はきまりが悪く、居心地が悪かったので、どうにかしてこの家を出たいと思った。
最初はバイトをしまくることで気を紛らわせていたが、もっとスカッとした活路を大学受験に求めた。なるべく金をかけずに一人暮らしができて、かつ家を出る納得感があるという理由で志望校を選んだ。この頃から、家にいる時間は音楽を聴くようになった。
父が釧路から帰ってくるタイミングで、入れ違いで大学進学のため家を出た。姉父母の組み合わせ、大丈夫なんかと思ったが、無視して京都での大学生活を楽しんだ。インターネットに入り浸った。
姉は就職で首都圏へ。姉弟は無事に離陸に成功した一方、父母がまともに会話をしたり、一緒に飯を食うことは完全になくなった。父はいきなり仕事を辞めた。
父と会うといちいち嫌なことを言われるので、実家に帰る頻度が著しく減少した。そもそも一切会話や共同作業をすることなく暮らす父母のいる家にいるのはお世辞にも気分が良くない。父とのコミュニケーションは減る一方であった。
父は仕事を理由にあらゆることを放棄してきたので、子供とも妻とも健全なコミュニケーションが取れていない。自分も釧路送り以来父と暮らしていないので、そもそも関わった期間も短い。自分が面倒ごとを避ける一方で、姉だけが、根気強く父との関係を持ち続けた。年末になるたびに姉は父と飲みにいった。
姉が脳梗塞を発症したことを契機に、母は東京で一人暮らしを始めた。まだ定年退職しておらず、働き続けていたにもかかわらずである。1秒でも長く姉といるために、大学病院のすぐ近くに、迷うことなく居を移した。父は仕事もなく、することもないのに、日帰りで一度来たのみであり、よくいうとドンと構えているが、この状況でもこの人は何もしないのか、という諦念がメインである。
こうなった今、もはや父の相手をする人間は存在しない。因果応報と言えなくもないが、金を稼ぎ家族を養った人間の受ける仕打ちとしてはひどすぎるものであるとも思える。男たるもの、家のことは配偶者に丸投げし、仕事に邁進すべき的な、時代の価値観の犠牲者ともいえるかもしれない。モーレツサラリーマンの末路は悲惨である。権力なき家父長制、妻にも息子にも相手にされず、娘は会話すらできない。かつてはあったはずの趣味ももうない。可処分時間の大半を会社に奪われたからである。残ったのは見栄で買ったマンションのローンだけであり、そのマンションに住む人間は父しかいない。
この年始に、父娘息子の3人での飲み会を提案した姉は慧眼であった。手遅れにならない最後のチャンスだったかもしれない。思わぬ形でそのチャンスは儚く消えてしまったが。
父母の関係修復はもうどうやっても無理ではあるが、父子の関係性はまだやりようがある。それでもやはり面倒くさく、放っておきたい気持ちは正直ある。が、姉の担っていた役割の引継ぎをする気持ちで正月に実家に帰ったわけである。
朝10時集合で飲酒。YouTubeの1日あたりのスクリーンタイム12時間、中韓ヘイトが生きがい(父は韓国のことをいまだに朝鮮と呼ぶ)の白髪混じりのおっさんは泣いていた。泣いていた理由は多岐に渡り、実に複雑な涙である。
朝10時から夜10時。泣く父を前に、時間だけはあるので、言いたいことを片っ端から全て話していった。途中から、父があまりにも家族のことを知らなさすぎることに気付き、言葉を失ってしまった。理由は単純で、姉を例外として、父はずっと誰ともまともなコミュニケーションをとっていなかったからだ。
「音楽なんか意味ねえから」と未だに父は言うが、自分は言っちゃ悪いがこの今のあなたのような末路を迎えないために音楽をやっている。いい感じのサラリーマンになって、いい感じのマンションを買う、という父の人生の目標設定自体が間違っていたと自分は思っている。家族と話をするべきだし、趣味を持つべきである。それを捨て、資本で代替できるようなものを成功のバロメーターにした時点でもう間違いだったと感じる。資本で代替不可能なものは、失うと2度と返ってこない。これは父の背中を見て学んだことである。
後半、しきりに「崚は離婚すべきと思うか?」などと尋ねられたが、もうしてもしなくても、それに対してなにかを思う人間すらもう残っていない。自分に言わせてみると、父はそれを検討するに十分な情報すら持っていない。さらにいうと、こういったシチュエーションを鑑みると、核家族の単位で生活するという様式自体が、かなり脆弱性の高いものでようにすら思える。
どうしたらいいのかさっぱりわからない年末年始であった。ますます姉の意見を聞きたくもなるが、一ヶ月経ったいまも、まだ話せそうにもない。
は毎日のように泣いていたし、母もそうであった。学校も父も助けてくれず、頼れるものがなくなった母は、気持ちの良いことばかり言う変な宗教に手を出したりしていた(あいつらは不登校の子供がいることをどこかで知った上で勧誘に来たと思われる。最悪!)。父はそれを全て無視して仕事をした。父母の関係は悪化した。今思うと、この時点で取り返しがつかないところまで来ていたような気もする。薄気味の悪い家であったが、自分はせめて手のかからないようにという意識だけはあった。生まれつき勉強だけはなぜか得意だったので、これでなんとかしようとぼんやり思っていた。姉はなんとか違う市立の学校に転校したが、もはや学校云々だけが問題ではなくなっており、そこまで状況は良くならなかった。
姉が中3のタイミングで、父の仕事の都合で関西に引っ越した。いきなり関西弁が飛び交う空間に放り込まれ、異国のように感じたが、姉にとっては一歩踏みだす良いタイミングであった。関西にきただけでも十分リセットできていたのに、さらに中学からもちょっと遠目の高校に進学し、全てを一新した。知らぬ間に、姉は別人のように明るい人間になっていた。あまりに様変わりした姉との接し方が良くわからなくなり、喋る機会が減った。
このタイミングで父が転勤で釧路に飛ばされた。姉のレール復帰と父の家からの退場によって、あらゆる目先の問題が消滅した(振り返ると、解決すべきあらゆる問題がこのタイミングで冷凍保存され、2025年に爆発しただけにも思える)。依然として自分はきまりが悪く、居心地が悪かったので、どうにかしてこの家を出たいと思った。
最初はバイトをしまくることで気を紛らわせていたが、もっとスカッとした活路を大学受験に求めた。なるべく金をかけずに一人暮らしができて、かつ家を出る納得感があるという理由で志望校を選んだ。この頃から、家にいる時間は音楽を聴くようになった。
父が釧路から帰ってくるタイミングで、入れ違いで大学進学のため家を出た。姉父母の組み合わせ、大丈夫なんかと思ったが、無視して京都での大学生活を楽しんだ。インターネットに入り浸った。
姉は就職で首都圏へ。姉弟は無事に離陸に成功した一方、父母がまともに会話をしたり、一緒に飯を食うことは完全になくなった。父はいきなり仕事を辞めた。
父と会うといちいち嫌なことを言われるので、実家に帰る頻度が著しく減少した。そもそも一切会話や共同作業をすることなく暮らす父母のいる家にいるのはお世辞にも気分が良くない。父とのコミュニケーションは減る一方であった。
父は仕事を理由にあらゆることを放棄してきたので、子供とも妻とも健全なコミュニケーションが取れていない。自分も釧路送り以来父と暮らしていないので、そもそも関わった期間も短い。自分が面倒ごとを避ける一方で、姉だけが、根気強く父との関係を持ち続けた。年末になるたびに姉は父と飲みにいった。
姉が脳梗塞を発症したことを契機に、母は東京で一人暮らしを始めた。まだ定年退職しておらず、働き続けていたにもかかわらずである。1秒でも長く姉といるために、大学病院のすぐ近くに、迷うことなく居を移した。父は仕事もなく、することもないのに、日帰りで一度来たのみであり、よくいうとドンと構えているが、この状況でもこの人は何もしないのか、という諦念がメインである。
こうなった今、もはや父の相手をする人間は存在しない。因果応報と言えなくもないが、金を稼ぎ家族を養った人間の受ける仕打ちとしてはひどすぎるものであるとも思える。男たるもの、家のことは配偶者に丸投げし、仕事に邁進すべき的な、時代の価値観の犠牲者ともいえるかもしれない。モーレツサラリーマンの末路は悲惨である。権力なき家父長制、妻にも息子にも相手にされず、娘は会話すらできない。かつてはあったはずの趣味ももうない。可処分時間の大半を会社に奪われたからである。残ったのは見栄で買ったマンションのローンだけであり、そのマンションに住む人間は父しかいない。
この年始に、父娘息子の3人での飲み会を提案した姉は慧眼であった。手遅れにならない最後のチャンスだったかもしれない。思わぬ形でそのチャンスは儚く消えてしまったが。
父母の関係修復はもうどうやっても無理ではあるが、父子の関係性はまだやりようがある。それでもやはり面倒くさく、放っておきたい気持ちは正直ある。が、姉の担っていた役割の引継ぎをする気持ちで正月に実家に帰ったわけである。
朝10時集合で飲酒。YouTubeの1日あたりのスクリーンタイム12時間、中韓ヘイトが生きがい(父は韓国のことをいまだに朝鮮と呼ぶ)の白髪混じりのおっさんは泣いていた。泣いていた理由は多岐に渡り、実に複雑な涙である。
朝10時から夜10時。泣く父を前に、時間だけはあるので、言いたいことを片っ端から全て話していった。途中から、父があまりにも家族のことを知らなさすぎることに気付き、言葉を失ってしまった。理由は単純で、姉を例外として、父はずっと誰ともまともなコミュニケーションをとっていなかったからだ。
「音楽なんか意味ねえから」と未だに父は言うが、自分は言っちゃ悪いがこの今のあなたのような末路を迎えないために音楽をやっている。いい感じのサラリーマンになって、いい感じのマンションを買う、という父の人生の目標設定自体が間違っていたと自分は思っている。家族と話をするべきだし、趣味を持つべきである。それを捨て、資本で代替できるようなものを成功のバロメーターにした時点でもう間違いだったと感じる。資本で代替不可能なものは、失うと2度と返ってこない。これは父の背中を見て学んだことである。
後半、しきりに「崚は離婚すべきと思うか?」などと尋ねられたが、もうしてもしなくても、それに対してなにかを思う人間すらもう残っていない。自分に言わせてみると、父はそれを検討するに十分な情報すら持っていない。さらにいうと、こういったシチュエーションを鑑みると、核家族の単位で生活するという様式自体が、かなり脆弱性の高いものでようにすら思える。
どうしたらいいのかさっぱりわからない年末年始であった。ますます姉の意見を聞きたくもなるが、一ヶ月経ったいまも、まだ話せそうにもない。

