#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
自分語り三部作のラストです。
Be 玄人(後編)
完全に個人的な営みであった音楽趣味が、少しずつ外に取り出されていったが、依然として、なんとなくサブの箱に入れられているという感覚はなくならなかった。大学の友達に積極的に音楽の話をすることはなかったし、就職してからも、会社の人間に対して自分から音楽活動について説明することは基本的にはなかった。第一の趣味であるが、人生のメインではない。良くも悪くも、この感覚は続いた。人にただ曲を聴いて欲しいだけの自分と、分別を持って趣味に取り組む自分が並行して存在していた。
化学がバックグラウンドの理系の人材として働いているのが公の自分だとする。それはあまりにも音楽と関係がなさすぎる。会社でどれだけ熱心に仕事をしようとも、ミュージシャンとしてのキャリアそのものには一切影響しないし、音楽制作で実績を積んだり、いい曲ができたりしても、それはサラリーマンとしてのキャリアにも一切影響しない。あちらの評価はこちらに関係がなく、逆にこちらの評価はあちらには関係がない。どちらを軸にみても、自分の総努力に対しての評価が半分捨てられている暮らしは、なんとも言えないきまりの悪さがあり続けたが、そのすっきりしなさに反して、良い方向に自分の価値観を変えた。
まず第一に、能力主義的な考えが希薄になった。あるコミュニティにおける評価軸は、その島を外れると無意味である。それはどんな種類のスキルであっても例外ではない。学歴でイキってる奴が鉄棒で逆上がりすらできないかもしれないし、ベンチプレスで100kg上げられても虫が触れないかもしれない。遍く価値があると思える人徳みたいなものですらも、ある価値観下では邪魔になりうる。あいつは有能、こいつは無能、みたいな判断は、あくまでその評価軸では、という但し書きがつくことを、常に半分しか評価されない暮らしを通して心の底から理解した。自分の見えている面が他人の全てではない、という想像力がより働くようになったので、近視眼的に人の能力の高い低いのジャッジをしなくなった。絶対的にクオリティで序列をつけられるほど人は単純ではない。あいつがポンコツ社員であったとして、それは会社の評価でしかなく、総合的に、人間としてポンコツであるということはありえない。
次に、創作そのものを神聖化したり、過剰にアイデンティティの拠り所にすることがなくなった。もともとそういった傾向が人より少ない方であったが、さらに輪にかけてなくなった。本質的に、創作が、あらゆる人に対しておしなべて興味を喚起したり、絶対的な価値を持ったりするほどのものではないことを経験的に理解した。自らの手で一生懸命作り、大切にしているものを他人に軽視されたとしても、そもそもそういうもんである。仮に作ったもののクオリティの高低を他人にジャッジされ、なんならこき下ろされたとても、そのクオリティ判断と自分のプライドみたいなものは完全に切断されており、本質的にダメージはない。
常に半分しか評価されない、コストパフォーマンスとしては極めて悪い状態に身を置きすぎた結果、これらの変化を、強く、明確に自覚するようになった。この暮らしにおいては、音楽を作る行為の意味をコストの外に求める必要があった。そのためには、クオリティ評価の軸を解体し、創作に別の理由を求めなければならなかった。
作り手としてはある程度、悪しき自意識から解放されたのちも、他者への説明、提示という部分でのこじらせはなかなか無くならず、解消するにはさらに追加で時間がかかった。めんどうであったから、そして少し恥ずかしかったから、という理由で、音楽とは関わりがない人に、音楽の話を進んですることを避け続けていた。一方で、大学の仲のいい友人や、会社の人間の一部は、自分にちゃんと真っ当な興味を持ち、作った音楽を聴いてくれていた。そういった人たちに対して、自分は失礼であった。しょうもない自意識の残渣で、すべき説明を放棄していた。他人に抱かれた興味に対しての誠意が不足していたことに気がついたのは、コミュニティを抜けた後であった。
個人の創作活動なんていうものは、万人に対して等しく価値を持つものではない。一方で、個々人に興味を持っている場合は話が変わってくる。個人にとって、その個人が興味があるやつのクリエイティブは意味を持つ。はたまた、クリエイティブを契機に、その人への興味が喚起されるかもしれない。とにかく、創作の価値というのは絶対的なものではなく、極めて属人的なものであるという考えが強まった。あいつに興味があるから、あいつのクリエイティブに触れてみよう。時には逆にみる。これを作っているのはどんなやつなんだろう。自他に対する興味が創作の価値の源泉であると認識し、コスパの外に創作の意義を求めた結果、パーソナリティの提示という結論に行き着いた。
創作を通したパーソナリティの提示は、さながら名刺のようである。手渡すが、もらった側はコンテンツにアクセスする義務はなく、そのままゴミ箱に放り込んでもよい。往々にして交換されるが、それは必須ではない。興味が沸いた時にようやく、その書いてある情報にアクセスすれば良い。多弁であるが、リアルでの密なコミュニケーションをめんどくさがる自分との相性も良かった。
気付けば様々な縁に導かれ、音楽と、それにまつわることだけで生計を立てている(やめた経緯はこの辺をご参照ください)。もうかつてのように、評価を半分捨てずに済むのだから、クリエイターとして、クオリティの競争に身を投じよう、と考えてもいいはずであったが、そのようにはもうなれなかった。自分のキモい自意識に端を発し、兼業によって醸造された価値観によって、クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality / C4Q)の魂は、もうシャバシャバに薄められてしまった。おれはどんなやつで、あいつはどんなやつなのか。個人性を取り出して見せよう。解釈にかかる手間は厭わない。興味の対象はもう明確であった。道は定まったのである。
おれがこの文章を書き、音楽を作っているのは、自分がどんな人間かを、自分と自分以外の人に知ってもらうためにやっている。おれが音楽をdigるのは、クオリティの高い、優れたものを見つけるためではない。今がどんな時代で、あなたたちがどんな人かを知るためにやっている。これまでの人生を通じて獲得した価値観であるからこそ、これからの人生を投じる覚悟がある。