クオリティを目的とした創作を「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality / C4Q)」と呼ぶ。技術を磨く、結果を出す、他者からの評価を得る。何らかの指標において、より良い状態を目指す態度のことである。
個人性を認識するための創作を「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)」と呼ぶ。創作物を、自分の内側にあるものが外に出たアウトプットと捉え、それを手がかりに「自分はこういう人間である」という理解を深める態度のことである。C4Pには外部評価の指標がない。指標の代わりにあるのは、自分の過去の選択の履歴だけである。
ギター下手すぎワロタ
高校生の時にはじめたので、ギターを弾き始めてかれこれ15年以上になる。熱心に練習をした記憶はないが、ギターを弾く行為も、そのサウンド自体も好きなので、割とコンスタントに弾き続けている。ここで一つ悲しい事実がある。歴に対して、あまりにも下手すぎるのだ。
一応断っておくと、アニメのオープニングとか、ドラマの劇伴とか、テレビのCMとか、いわゆる業務のレベルでおれのギターやベースの演奏は普通に使われており、音楽をやっていない人基準で考えると弾けてはいるわけである。じゃあ、いわゆるプロの基準で考えるとどうなのかというと、それはそれはお粗末である。楽器演奏を生業とするスタジオミュージシャンの演奏力を100とすると、おれのそれは謙遜などなく3くらいである。プロでなくても、そこらへんの、普通にギターを趣味にしている人と比べても、演奏の巧みさという意味では大差がないであろう。
さらにいうと、15年以上弾き続けているのに下手ということは、このまま20年、30年と続けてもまあおそらくめちゃくちゃ上達することは考えにくい。30歳になって心機一転、初めてギターを弾き始めました、という人間は、可能性という意味では、とてつもなく適性があり、10年後にはとんでもない技術を獲得している未来もありうる。それが残念ながらおれにはない。15年かけて十分な検証が済んでいて、そういう意味での才能がないことが、良くも悪くも確定している。
一方で、ギターを弾くのはたまらなく好きである。ギターの初心者教則本に載っているようなオープンフォームの押さえ方で、CとかAとかのコードを適当にジャ〜ンと弾くたびに、未だに「なんて素晴らしい響きなんだ!」と感動している。それに加えて、自分のプレイそのものも好きである。自分の弾くフレーズ自体が、録音してプレイバックする行為が、それを使って曲を作るのが、そして自分のギターが使われた曲が好きである。
こんな話をすると、自己愛がすぎるというか、もうなんかナルシストの類なんじゃないか、と感じる人もいるだろう。例えば、並以下の容姿の人間が鏡で自身を見て日々うっとりしている様子は、人によってはアホなんじゃないかと思ってしまうかもしれない。しかし、我々は本質的にそうなったほうがよい。
楽器の演奏とは身体操作である。そして、手のデカさとか指の太さとか、体の部位の造形や、その動かし方は個々人によって異なるので、究極的に言うと演奏によって放たれるサウンドというのは人の数だけ異なるものである。話す声が千差万別なのと同様に、本質的に、楽器を演奏して紡がれるサウンドというのは、弾いた時点で唯一無二である。それと同時に、下手さというのは凡庸さを生む。下手な弾き手は、その細かな差異を往々にして認識できないし、ましてやそれを身体操作を通じて思うようにコントロールできないからである。優れた演奏者であるということは、良い演奏とは何かを理解していること、そして、そうなるように身体を正確に操れることの2点によって達成される。
ここにさまざまなややこしさがある。楽器というのは弾いた時点でオンリーワンである。人の体は皆違うからである。一方で、それがオンリーワンであることが認識できるのは、その差異を捉える解像度を有した、熟練した演奏者のみである。我々が立ち向かわなければならない矛盾がここにある。「低クオリティであるが、誰しもがオンリーワンである」という理屈は百歩譲ってまあ受け入れ可能だとする。しかし、それを実際の音の差異として認知することは、解像度不足の低クオリティの人間には達成できない。聴き専でこの解像度を身につけるのはなかなか難しく、演奏の鍛錬を通じて獲得する頃には、大抵は本人も低クオリティではなくなっている。これがクオリティ主義者を生む原因の一つであると考えている。そして、「低クオリティであるが、誰しもがオンリーワンである」という状態そのものは、客観的になんの市場価値も生まない。
これを認識した上で、われわれは振る舞いを決める必要がある。ここでのオンリーワン性というのが、自分の言うところのパーソナリティである。C4Pマインドで生きると言うことは、自分の演奏や、自分の曲を、世間の評価とは無関係に好きでいるということ、そして、それが他人とどう違うのかを理解しようと努めることである。
それはそれとして、自分はミュージシャンである前に、熱心なリスナーである。たくさんの音楽を聴き、たくさんの演奏を見て、自らの演奏が、自らの曲が、他人とどう違うかを、誰よりも正しく理解したいと心から願っている。「15年以上弾き続けているのにギターが下手」と言う事実に関しても、15年以上弾き続けているのに下手なことが知れて嬉しいと思っている。こんだけ弾いて、なお下手なんだから、平均的な何かを逸脱した要素が自分にはある。それはなんなのか。
パーソナリティに着目すると言うことは、他人との差異に興味を持つと言うことである。例えば、自分の演奏者としての特殊性を強いて言うのであれば、ギターをはじめたその時点で自分は宅録を開始していて、その後のギター人生を振り返っても、ギターを弾くときの大半は、それが録音されているという点であろう。レコーディングが仕事のスタジオミュージシャンならともかく、ど素人の時点で、ほぼギター演奏=録音である。初心者であった頃から今に至るまで、自分の弾いたギターの録音波形を15年眺め続けている、そんな人間はなかなかいないであろう。
なんでおれがギターが下手くそなのか。その一点だけとっても、自分は強い興味があり、だからこそその理由を誰よりも知っている。上記のように言語化できるもの、できないもの含め様々あるが、端的に言うと、自分が素敵だと感じる領域に到達するのに、一般的な意味での高い演奏技術が必要ないからである。
自分は長年のギター演奏の試行錯誤の果てに、何かの練度を高めている。が、それは一般的なクオリティの軸から外れていて、結果として、下手である。しかし、人には理解されづらいだけで、それも技術でありクオリティである。その無形の練度の高まりによって、パーソナリティの輪郭の一部分に触れることができる。一般的な演奏技術の優先度が下がったのは、手段というよりは結果である。普通に長年ギターを弾いて、一般的な意味で上手に演奏できるようになれればどれほどよかったか、と願ったことは何度もあるが、残念ながらそうはならなかった。しかし、謎の要素の練度を限界まで高めれば、何かしらの素敵な気持ちになれると信じているのだ。

