クオリティを目的とした創作を「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality / C4Q)」と呼ぶ。技術を磨く、結果を出す、他者からの評価を得る。何らかの指標において、より良い状態を目指す態度のことである。
個人性を認識するための創作を「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)」と呼ぶ。創作物を、自分の内側にあるものが外に出たアウトプットと捉え、それを手がかりに「自分はこういう人間である」という理解を深める態度のことである。C4Pには外部評価の指標がない。指標の代わりにあるのは、自分がどう選んできたかという履歴だけである。
前日の江ノ島でのイベント出演後に爆睡してしまい、大幅に遅刻しての大阪文学フリマ参加でした。まじすんません…自分の愚かさ全てを棚に上げたテキストです。
誰が読む?
会場を見渡すと、それはそれはかなりの数の日記、エッセイの出展が目立つ。自分もそうである。まず、前提として、日記やエッセイなんてものは可能であるなら全員が書いた方がよい、という自分のスタンスは揺るがない。これは、全員が適度な運動をしたほうが健康にいいのと同じである。日々の出来事や、思ったことを文章にする。これはパーソナリティの発現として実に素晴らしく、C4P的なライフスタイルを目指す上で最もわかりやすい実践であろう。
ここで問題なのが、誰に読ませるか、という話である。エッセイも日記も普遍的なフォーマットであるがゆえ、世の中には商業出版されている素晴らしい作品が大量にあり、簡単かつ安価に購入できる。文庫であれば1000円でお釣りが来る。歴史の淘汰を勝ち抜いた名文が、比喩ではなく、文字通り読みきれないほど存在している。文章自体の価値以外で考えても、著名人が書いた日記やエッセイは、その人に対しての興味がそのまま読むモチベーションになる。そして、今回の文学フリマだけでも1500の出展がある。C4Q側の視点としては、この大量の選択肢のなかで自分の本を選んでもらう理由が必要になる。歴史淘汰を経た文豪たちの名文ではなく、なぜ文フリで素人の本を読むのか。そして文フリの大量の出展のなかからなぜ、有名人でもないあなたの本を読むのか。この2点は同人活動をする上で決して無視できない。
今回、“ノンフィクション|エッセイ・随筆・体験記”カテゴリには300近い出展があった。これだけの人間が、自主的に、文章を書いて対外的に発表する、というのは感動的である。一方、参加する上で、自分も含め、アマチュアの素人が書いたカスの日記やエッセイを、わざわざ誰が読むねん、という問いから逃げることはできない。C4P的な視点で言うと、全員が文章を書いて、発表をした方がいい。しかし、C4Q的にいうと、一部の例外を除いて、他人がわざわざ読む理由を見出して、可処分時間を割く本などほとんどない。まずこの構造を頭に叩き込むことが肝要である。
そもそも世間の人はそんなに本を読まない。読んでも、せいぜい話題のベストセラーくらいである。その限られた読書時間を奪い合う市場競争下では、わざわざ読む価値を認めてもらえる本などほとんどない。
ここで、文学フリマを「小さいC4Q市場」と捉えることも、「市場経済をぶっちぎったC4P空間」とみることもできる。前者で行くなら、誰に何を面白がってもらいたいのかを考え、質を高め、適切な相手に宣伝をする必要がある。後者で行くなら、参加しただけでもう十二分である。ジョギングが趣味のやつにタイムを問う必要はない。好きだからやっている。対外的に発表できる形の自分の作品がそこにあって、手にとってみれる時点で、それはあなたのパーソナリティが滲んでいる。ついでに誰かのブースに行って、そいつの本を買って、どんな人なのか興味を持てればそれでいい。
誰のを読む?
大阪は東京文フリよりはマシだが、それでも1500ブースである。じゃあ誰の本を読めばいいのだろう。
C4Q的にいうなら、自分が面白いと思える、質の高い本を読みたい。ここで問題が生じる。テキストというフォーマットは、その良し悪しがある程度読んでみないとわからない。試し読みやwebカタログで絞ることはできても、1500ブースを比較して納得の一冊を選ぶには、とんでもなく時間がかかる。商業出版の本のように、書評や評判を手がかりにできるとも限らない。結局、ぱっと見、面白そうなやつを買ってみることになる。文フリには「小さいC4Q市場」としての側面があるが、競技場でのバトルとみなすには、いささか曖昧すぎるという性質がある。
C4P的にいうなら、まず友達や知り合いの本を読むべきである。友達というのはかけがえがないものであるから、その人が書くものもかけがえのないものである、というのがC4Pロジックである。さらにいうと、作者と作品をセットで知ることは、作品にどうパーソナリティが出るのかを学ぶ良い機会となる。普段のそいつを知っているからこそ、「いかにもこいつが書きそうやな」と思うこともあれば、「そんなこと考えてたんか」と驚くこともある。知っていたつもりの人間を、作品を通じて知り直すのである。そういう経験を重ねることは、知らない人の作品を読んで、その人に思いを馳せる練習になる。これがC4P的な鑑賞の能力となる。そういう経験があると、作品だけを見て作者を過剰に神格化することにも、作品と作者は完全にキッパリ無関係だとすることにも、ちょっと待てよと思えるわけである。
友達がいなかったら、友達になりたい人、ないしは興味を持てそうな人を直感で探して、適当に買えばいい。作品を通じて、そいつに思いを馳せるのがC4Pである。実際に後日感想などを伝えて、友達になれれば理想的である。しかし、こちらが興味を持っていても、相手にも興味があったり、友達になりたいと考えているとは限らない。創作物というバッファを挟むことによって、友達になれず、相互的な関係を築かずとも問題がない。相互であるのが望ましいが、別に一方通行でもOKである。これも創作を介することでの大きな魅力である。
いくらで売る?
綺麗に製本された文庫が1000円足らずで買える世界において、文フリでは中綴じの、数十ページしかないペラペラの”薄い本”が1000円以上とかで売られている。音楽同人の界隈と全く同じで、これはぼったくっているわけではなく、小ロットでの制作で収支を考えるとそうなるというだけである。”小さいC4Q市場”ではあるが、その内実は巨大な資本主義社会からすると、あまりに各自が好き勝手値付けをしているめちゃくちゃな空間である。
自己の立ち位置を正しく認識することが大切である。自分は、10万文字書いて、プロにデザインしてもらい、特殊仕様で製本した。B6で200ページ超、市場で言うと2000円くらいで売られるような仕様だが、自分は素人なので-500円して1500円で販売した。社会の中で見てなるべく妥当な値付けをしたいと願う、これは極めてC4Q的な考えである。
一方、本を売るよりも自分の考えをみんなに聞いてもらいたいのが一番である。だから大体ほぼ全ての原案がメルマガという形で読めるし、特設サイトで粘れば全文読める。別に執筆は本業でもなんでもなく、趣味なので、極論、誰も買ってくれないなら本自体もタダで配って構わない。自分の場合、本の売上がなくても、考えを誰かに読んでもらえさえすれば、このC4P論の布教活動でやりたいことのかなりの部分は達成できる。
とにかく自覚することが大切である。おれの本が売れるのは、本の内容以前に、SNSのフォロワーが数万オーダーでいて、メルマガの読者も1000弱いるからというだけとも言える。文フリを”小さいC4Q市場”と捉えるのであれば、ペラペラの「薄い本」を1000円以上で売る時には、その値段で読みたいと思ってもらう理由が要る。文章の面白さなのか、題材の珍しさなのか、本そのものの造りなのか。なんであれ、買い手がその値段を払いたくなる理由を、作品の中に作る必要がある。文フリにはそういった優れた作品が山ほどある。
逆に、”市場経済をぶっちぎったC4P空間”としてみるなら、値付けなんてどうでもいい。タダで配りまくろうが、大赤字はやだからちょっとは金を取ろうとか、自由に、適当にすればいい。タダで本を配るやつがいると、他の人が金取りづらくなって良くない、みたいな意見は無視して良い。それはC4Q的な観点での考えである。そう思うのは自由である。そして、それは無視してもよい。本を売って収益を得たい人も、金にならなくても作ったものを誰かに渡したい人も、同じ場所にいられる。その両方を受け入れることに、文学フリマという催しの意味がある。商業出版と同じ価格や商品性をすべての本に求めるなら、そもそも文学フリマという催しをわざわざ開催する意味自体がない。
上記のような視点で言うと、売れ残った本は、売れ残った本どうしでガンガン交換すべきである。それを馴れ合いだと言うなら上等である。作品にしたからには、なるべく読んでもらった方が良い。道端で配るより、文フリで交換した方が意義があるのは自明である。そこにいるのは、仕事でもないのに本を作るようなやつだけであり、良きバイアスのかかった空間であるからである。
自分に嘘をつかない
自分がこれまで多種多様な自主制作をやってきた経験から言うと、自分の目指すC4P/C4Qバランスを見極めることと、それに嘘をつかないことが何よりも大切である。そして、それはとても難しい。
それ自体が楽しくて無邪気に執筆をしていた人間が文フリに出展した。しかしさっぱり売れなかった。キャッチーな題材を入れないと、とか刺激的な体験を取り扱わないと、みたいなことを考えてしまって、次作は本来書きたいものとは違うものを書き始めてしまった。これはC4Qの圧力でC4Pが曲げられてしまったケースであり、あまり望ましくない。逆に、「文章でカマして人気者になるぞ!」と意気込んだ人間が、これまたさっぱり売れなかった時に、大した努力もしないで、「シャバい題材を扱うようなやつはダサい。おれは真の意味で文筆に取り組んでいるからアホの大衆には理解されなくても仕方がないんや」などと言い出すのは、C4Q的な目的意識があるくせに、競技者としての研鑽を放棄してC4Pマンのフリをしているだけである。
創作の魅力というのは、C4P/C4Qの二面性があることからきていると言ってよい。どちらだけで捉えるにも弱く、両輪であって然るべきだ。文フリをはじめとする同人イベントは、そのどちらをも受け入れる。成り上がる手段として文章を書いているならそれで良い。誰にも需要のないカスの文章を書いて赤字を垂れ流すのも良い。自分が今回やった「中身がメルマガでタダで読める本に市場相場に近い値段をつけて売る」という行為も冷静に考えるとメチャクチャである。それでも買ってもらえるのは、みんなが資本経済をぶっちぎった購買活動をしてくれているからである。普通に生きているとC4Q的な視点ばかりが導入されるので、せっかくなのでC4Pムーブをした方が良くないか?という話でした。
売れ残りを通販に回してます。すぐなくなっちゃうとは思います。申し訳ないです!https://shop.intheblueshirt.com/items/146587335

