自分のクリエイターとしての立ち位置は実に中途半端である。大衆的なものを志す人にとっては変すぎるし、真の意味でアングラなものや、ストイックな人からすると俗っぽくてシャバすぎる。自認としてはオタク側であると思っているが、真にオタクな人からするとシュッとしたスカしたやつやなーと思われ、オシャレな場に行くと相対的には普通にダサいオタクである。
基本的にステレオタイプな枠にずっとハマらないことは損することが多い。が、わかった上で、あえて望んでやっている。広告マンにはちょっと目先を変えた変な感じを出したい時に曲を発注され、逆に謎にSNSフォロワー数が多いことから、大衆性が不足するものの客寄せパンダ枠として振る舞うことを求められたりもする。インテリとして振る舞うには専門性の深度が足りず、SNS運用も俗っぽすぎるが、アホぶるにもいかない立場でもある。
この中途半端さと向き合う上で、ひろしまアニメーションシーズン2026に参加した経験から、非常にポジティブな影響を受けたのである。
ひろしまアニメーションシーズンとは、2年に一度、夏の広島で開催される国際アニメーション映画祭である。前身は1985年に始まった広島国際アニメーションフェスティバルで、アヌシーやザグレブと並ぶ世界四大アニメーション映画祭と呼ばれていたが、2020年をもって幕を下ろし、2022年から現在の形で再出発した。日本で唯一の米アカデミー賞公認アニメーション映画祭であり、ここでグランプリ受賞をすればアカデミー賞短編アニメーション部門の選考対象になる。第一回のコンペティションには86の国と地域から2000本を超える応募があった。アーティスティック・ディレクターは山村浩二氏、プロデューサーは土居伸彰氏。長編と短編のコンペティションを軸に、世界中から集まった作品の上映やトークが、数日間にわたって行われる。
部門は 短編/長編/環太平洋・アジアユース/日本依頼作品の4つであり、ノミネート作品が上映され続け、最後には受賞作品が決められる。
おれはずっとin the blue shirtの音楽からビジュアルを自由に連想してもらう、納期無限、長さ内容自由の”Free Association”という動画大喜利企画をやっている。中村匠吾さんに自分の楽曲”Windfall”を題材にやってもらったストップモーション作品があるのだが、これが晴れて日本依頼作品にノミネートしたわけである。
日本依頼作品部門
自分の作品が上映されたのもこちらである。HPを見るとわかるが、過半数がミュージックビデオ、次点で多いのがプチプチアニメやシナぷしゅなどのテレビ放送関連、残りが行政・自治体や催しに関わるものである。
まず、「日本依頼作品(Japanese Commissioned Film Competition)」ってなんやねんという話である。文字通り受け取ると、誰かに頼まれ、用途があり、予算と納期があって作られた、作家の自主制作ではない映像が対象ということになる。他の世界的な映像祭の代表であるアヌシー(Annecy)やオタワ(OIAF)にも「Commissioned Films」という部門があり、それぞれの定義は以下である。
アヌシー(Annecy)
Every day, we encounter a wide variety of visual productions: the latest animated music video by our favourite artist, the educational video our nephew watches over and over again, an advert for a chocolate brand, a short film lost among the trailers that raises awareness about bullying at school, and even the trailer for your local film festival...
私たちは毎日、実にさまざまな映像に出会っている。お気に入りのアーティストの最新アニメーションMV、甥っ子が何度も繰り返し見ている教育ビデオ、チョコレートブランドの広告、予告編の合間に紛れ込んだ、学校でのいじめについて注意を促す短編、そして地元の映画祭の予告編さえも……
Works that are funded and produced for specific commercial or promotional purposes. Including but not limited to commercials, title sequences, station/program identification spots, music videos, trailers, and video game art, elements, or promotional materials.
特定の商業的または宣伝的な目的のために資金提供を受け、製作された作品。コマーシャル、タイトルシーケンス、放送局・番組のIDスポット、ミュージックビデオ、予告編、ビデオゲームのアートワーク、素材、あるいは宣伝材料などを含むが、これらに限らない。
アヌシーの定義が面白く、具体を並べて、日常の一部に溶け込んだ映像たちの部門、といったニュアンスで書いてある。受け手側から定義するか、作り手側の制作条件で定義するかというだけの話であるが、平たくいうと、「外向けの機能を持って社会に流通している映像の部門」と言っても良いかもしれない。とにかく、映像の用途が映像の外にあることが肝要である部門である。
自分と中村さんの関係でいっても、明確に自分から依頼をしている。納期無限、長さ内容自由という企画の特性上、その内容は指定していない。お金も払ったが、京都高島屋SCがリニューアルした時の動画を中村さんが担当し、自分の曲を使っていただき、その時に稼働ナシで得た金を使って依頼をしているので事実上は0円である。かなりソリッドな意味で、「依頼」のみをしてできた作品である。依頼をした、という事実のみがある作品が、依頼作品(Commissioned Film)として評価してもらったのはなんとも言えない痛快さがある。おれがやっていたことは、結果として、依頼という行為を、内容も金も締切もない純粋な”依頼そのもの”の事実のみに削ぎ落とすという謎工程であった。
こういうところでは、「誰が何の基準で審査するか」が会の性質を決定すると言ってよいだろう。例えば、広告賞は広告の人が、広告の基準で審査することになる。テレビCMなど、広告関連の代理店関連の音楽仕事を自分はかなりやっているわけだが、デザインはともかく、映像系の広告賞は基本的にあまりに”広告っぽすぎ”て、自分の肌には合わないな、とずっと感じていた。そして、映像の賞というのはだいたいそんな感じやと勝手に思い込んでいて、それは事実とは全く異なるものであったのである。ここでは、5人の国際審査員が短編コンペ/ユース/日本依頼作品を横断して審査した。顔ぶれは、審査委員長のジョルジュ・シュヴィッツゲーベル氏(スイスの作家)からスタジオ4℃代表の田中栄子氏まで、作家と製作会社の代表が並列で起用されている。依頼作品も、作家の短編も、内部の基準は同じではないだろうが、同じ5人の目によって審査された。高濃度自主制作とクライアントワークが同じようにみられるのは、自分にとってかなりポジティブに感じられた。
短編部門
逆にいうと、それ以外の部門は「依頼(Commissioned)」されていないこと、要するに作家の自主制作であることが必須である。これも実に嬉しいことである。ひろしまアニメーションに参加して、椅子に座っているだけで朝から晩まで自主制作摂取し放題であり、とんでもない空間である。
最も参加者が多く、メインとして取り扱われるのは短編部門である。世界が対象なのでレベルも非常に高く、表現様式も多岐にわたる。日本からの参加は全体の5%に限られ、かなり国際色の強い部門となる。自主的であること、国内色が薄いことの2点から、日本依頼作品部門とのコントラストはかなり明確である。(逆にいうと、それがそのまま日本依頼作品部門擁立の理由となるとも言えるだろう。)
アカデミー賞へと繋がるグランプリは、文字通りの賞レースとしての側面があるが、それ以外の特別賞が「寓話の現在」賞、「社会への眼差し」賞、「虚構世界」賞、「光の詩」賞である。これは、受賞、という行為をなるべく序列みたいなものから引き離そうという運営の意図が見て取れる。これがTOP5!などの名目であると、色々と趣旨が変わってしまうが、そうなってはいない。基本的に、自分はあらゆる賞レースは、グランプリ以外は訳のわからない名前のものか、個人賞みたいなものであればあるほどいいと思っているので、この姿勢には賛同できる。(ちなみに長編作品はスケジュールの都合で全然見れてません。)
みんなで作る、ひとりで作る
世間一般が”アニメ”と言われて想起するのは、ネトフリやらTVやらで放送される、とてつもない予算のもと、大規模なチームで作られるものであろう。一方、”作家の自主制作であること”を必須要件とした時に、そのような形態を取るのは難しい。なぜなら大人数が、対価を度外視して自主的に一つの作品に協力することなんてないからである。自主制作であるためには、結果的に人数を絞る、なんなら一人でやることになる。アニメーションという、かなり制作工数のカロリーが高い表現様式において自主性を担保するためには、個人に近いスケール感で、アホほど時間をかけてやるしかない。結果として長尺の作品を作るのは実に困難であり、短編部門が厚くなる。手書き、CG、コマ撮り、実写併用、幾何学モーション、など、表現様式は多岐にわたる。出力方法は多岐にわたるが、問われるのはその作家のイズムである。映像を通した世界イズムコンテストである。そんなものが、パーソナリティ論者であるおれの好みに合わないはずがないのだ。
傾向
アナログ導入
アナログのテクスチャを導入しようとした作品が非常に目立つ。特に日本依頼作品に関してはかなりの作品がそうである。クレイ、切り絵、物理的な透過素材や、手書きの際の画材選択など、PCベースの制作フローに何らかの質感を持った物質の撮影を導入することで、物質的な手触りが得られる上、作業工数が爆発するため他者の参入障壁が高く、適切に手法を確立するとそれをそのまま自身の作家としてのシグニチャーにすることが可能である。映像作家100の面々などを見ていても、同様の傾向はあるような気がするが、”アニメーション”軸で切るとより顕著である。他方、テクスチャを選ぶだけの質感大喜利になってしまう危険性もあり、その綱渡りも含めて面白い。
私小説的な
「個人に近いスケール感で、アホほど時間をかけてやる」ことがほぼ必須であるわけだが、人間がそこまで頑張れることというのはあまりない。結果として、取り扱われる題材は、個人的な強い感情を伴うものがどうしても増える。極めて個人的なトラウマ、幼少期の記憶、家族関係、生い立ち、衝撃の大きかった体験。個人で、大きなコストをかけてやるからには、しょうもないことを取り扱うのは逆に難しく、結果として”重い”作品が増える。会場にいると、座って画面を見ているだけなのにヘトヘトになる。”重い”題材というのは、それが大ごとであればあるほど、そのまま作品の強度として出力される。一方、それが重ければ重いほど、それを題材にした作品はカジュアルにホイホイ作ることが難しくなる。自身のスタイルを鑑みると、おれの作品は、”重い”要素が影響することはあっても、基本的には極めて間接的にしか取り扱われない。「個人に近いスケール感で、アホほど時間をかけてやる」が、軽薄さは維持したい、という自身の嗜好がそれなりに変であることに改めて直面したとも言える。
ふざける
上述の理由で、いわゆる”ふざけた作品”というのがあまりない。依頼コンペでのしょーた氏のシナぷしゅの映像など、頼まれ仕事の方では一定の需要があるが、「個人に近いスケール感で、アホほど時間をかけて」ふざけたいやつは意外といないことがわかる。
唯一、CGという表現様式はふざけに向いている。AJ Jefferies氏の短編ノミネート作品が代表的であるが、特定の部位をデカくしたり、奇天烈な造形を生成したりするための試行コストがめちゃめちゃ低い。PCゲームの定番改造チートコードにBIG HEAD(そのコマンドを打ち込むとゲーム内の全部のキャラの顔だけがバカデカくなる)があるが、そんな感じで、描写のデカさを司る特定パラメータを1桁上げるだけでヘンテコな造形が出来上がる。
手書きのアニメを1000フレーム描いた後に、顔だけデカく描き直す気力があるやつはそうそういない。要するに、選択手法とふざけやすさには密接な関係がある。
個人的には、AI活用による工数削減がこのふざけ領域の拡大に寄与することを期待している。ホリエモンAI動画のようなミーム路線ではなく、工数が削れることで、新たなふざけの場の発生が起こってほしい。
両輪を回す
幸洋子氏は日本依頼作品(シナぷしゅのFUNKY LUCKY SUPERSTAR)に入選しながら、日本人で唯一の短編コンペ受賞者にもなっている。作品のクオリティは自分がどうこういうレベルではなく卓越しており、それはそれは素晴らしいものである。幼児向けのテレビ番組の依頼仕事と、自分の幼少期のイメージを猫との記憶と絡めて描いた極めて私的な自主制作が、同じ人の同じ手から応募され、同じ映画祭で、片方は依頼作品として、片方は作家の作品として審査されている。これは、フィールドは違うが、自分のような立場の人間にとって、非常に勇気づけられることであった。
藤井亮氏は今は独立しておられるが、かつては電通で、いわゆる代理店のスターとして活躍した。がっつり広告畑の人である。が、今回上映された『タローマン』は、極めて作家的な作品である。今回はひろしまアワードを受賞した。一方、ドン・ハーツフェルトは逆に徹底的に広告的なものから距離を置いた作家である。『Billy’s Balloon』の成功後、『Rejected』という依頼仕事をシニカルに取り扱った作品でアカデミー賞にノミネートされた。クライアントワークから距離を取り、依頼の構造そのものを作品にしたわけである。今回は「光の詩」賞を受賞した。
広告の中に長年いた人間と、広告的なもののアンチとして振る舞った人間が、同じ映画祭の同じ会期で賞を取っている。これも映像畑ではそういうもんなのかもしれないが、個人的にはかなり熱い話である。
別のタイプとして、日本依頼作品のグランプリを取った山田遼志氏が挙げられる。King GnuのMV、『オッドタクシー』のOP、CM、イラストレーション。制作会社を経てフリーになってからも、クライアントワークをやりまくり、それがアヌシーに入り、依頼作品部門でグランプリを取る。クライアントワークの範囲で十二分な作家性を発揮している人もいる。新千歳空港国際アニメーション映画祭での彼のトークの題は「『作家性』という限界を食い破るために」だった。「個人に近いスケール感で、アホほど時間をかけてやる」ことの美しさを認識した上で、一人でやることの工数の天井を、作家性を落とさずにいいとこどりしてぶち抜く装置としてmimoidが作られたのだとすれば、それは個人的には胸が熱くなる話である。一方、自分はというと作家性的な意味でのパーソナリティの純度は、クオリティを毀損してでも確保したいという極端なスタンスでもあり、これはつくづく個人の気質の問題である。
自分の場合、CMの音楽と自分のアルバムの曲はどちらも楽しくやっているが、全く違うものとして取り組んでいる。それぞれの評価軸は違っていて、それぞれのルールでやっているという意識が強かったわけだが、いささかそれは行き過ぎたものなのかもしれない。ステレオタイプな型にいまいちハマり切らない半端者にも、どこの領域にもフィールする人間はいて、そういう人にもっと出会っていかなければいけない。
さらにいうと、個人的な作品は、作品強度の高低とは別に、どうしても重たーい題材になりがちという傾向も再確認できた。個人的であり、偏執的な執着みたいなものを、軽薄なニュアンスを宿したまま実現したいという不思議な目標を得たのである。
そしてやはり、シンプルに、人の心を動かすような素晴らしい作品を作りたいと思ってしまうのである。素晴らしい作品は連鎖する。そういった作品をたくさん見たので、自分も頑張らないといけない。
最後に、in the blue shirt映像大喜利大会”Free Association” は参加いただける映像作家の方を募集しています。欲しい金額と作りたい映像の内容を添えて、お気軽にご連絡ください。
info@intheblueshirt.com

