The Blue Envelope #66
C4P反省会場
#ITBS_text
もうずいぶん経っちゃいましたが、C4P本が無事1000部完売いたしました。おれが大学生の頃に出した1stアルバム”Sensation Of Blueness”の全国流通枚数が1000枚であったので、10年前にミュージシャンとしてたどり着いた水準に文筆でもたどり着いたということにしておきます。何事も一生懸命やるに越したことはないと改めて感じました。
お前らが変なんや
先日の第十回サウンドシェアで非常に面白い質問があった。「そんなずっと作りたいものがあり続けて、延々と音楽やってるあんたら(おれ+ゲストのストーンズ太郎)が特殊すぎるだけで、再現性はないんじゃないか」といったものである。
ある程度音楽を作っていたが、途中で作りたいものがなくなって、モチベがなくなってしまったことに悩む人がいたとして、C4P的な態度を突き詰めると、「ある程度音楽を作ると、途中で作りたいものがなくなってモチベがなくなってしまうという自分が発見できた」ことを喜ぶことになる。が、これをもはや屁理屈に感じる人がいることは否定できない。
C4P作文を音楽(ないしは任意の創作活動)を続けるための処方箋として求める人は結構いて、そして、実はその効能はあまりないことを認める必要があった。継続すべきはC4Pマインドで、その対象や活動領域が音楽であるかどうかは誰もわからない。C4P的な主張に真の意味で従うと、本当にやりたいことを常に疑って考え直す必要があり、今自分が一番大事だと思っていることをゆくゆくは捨てる判断に行き着く可能性もある。
ややこしいことに、自分は”音楽活動はなるべく継続すべき”的な主張もたびたびしている。これが混乱の元である。音楽は続けるべきだ、と主張する人間が強く発信する内容に従えば、音楽が続けられるかもと思うことは自然である。でもそうはなっていない。詐欺と言われるかもしれない。
人は飽きる。この”飽き”という感情のハンドリングはC4Pの本質的な部分である可能性がある。何には飽きて、何には飽きないのか。飽きても、どれくらいの距離や時間を置けば興味が復活するのか。その自己理解はかなり重要であり、パーソナリティそのものにかなり肉薄しそうである。C4Pとは、実践のレベルでは自身の飽きの感情を理解し、乗りこなす態度であると言っても大きな問題は生じないだろう。
加えて、おれの”継続”の定義はガバガバで、昔バンドでギターをやっていて、以後30年弾いていなかったおっさんが、65歳でアコギを買い直して3日弾いただけでも継続していると見ている。そのおっさんは一度ギターから離れた、そこには様々な要因があるだろう。なぜ離れ、なぜ帰ってきたのかを楽しむことがC4P的であり、おっさんに30年弾き続けさせることはできないことをちゃんと認めた上で、そう書く必要があったかもしれない。
改めて質問に答えるならば、「おれのスタンスも太郎のスタンスも他者からすると再現性はない。2人とも、音楽に対しての”飽き”に向き合う方策をそれぞれ持っていて、音楽の範囲から出ない範囲でたまたまその”飽き”をハンドリングできているだけである」という回答になる。音楽の範囲から出る(=一旦音楽から離れる)ことでしかその”飽き”に対処できない人もいるだろうが、それは全くもって問題ではないと言うのが自分の考えである。
想定読者問題
一連のC4P作文に対して様々な反応をいただいたわけであるが、わかりやすい問題が一つあった。それは、読んで欲しい層には否定され、逆に言うといい意味で読むまでもない人にばかり褒められる、と言うものである。
読んで好意的な反応をくれる人はそもそも読むまでもなくいい感じにC4Pマインドがある人がほとんどで、逆に、読んで欲しいような、C4Qイデオロギーに苦しめられている人ほど、サンクコストへの攻撃として読みネガティブな反応をする傾向にある。
ここには、実績のある人が「評価なんか気にすんな」と言えば「勝者の余裕」に聞こえ、実績のない人が言えば「負け惜しみ」に聞こえるという、明らかな構造上の問題がある。どのポジションから発言しても、本質的にムカつく話題であるのだ。
世界に一つだけの花で歌われた” NO.1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one”という世界観とおれの主張は本質的には同一であるが、これを現実をサバイブする上ではクソの役にも立たない綺麗事、と思っている人はかなり多い。「自分を苦しめてきたあのルールは、実は守らなくてよかった」、みたいな結論は別に人を救わない。大体はイラつかせて終わりである。学歴厨だったり、年収で人の価値を測ったりして、結果的に不必要なストレスを負っている人に対して、「それだけが人生の全てじゃないですよ」と諭してもろくなことにならないのは想像に難くないが、まあそれに近い構図である。こういった構造での対話が骨折り損のくたびれもうけであることは、最近のインターネットを見ていると自明である。が、結果として自分はそれをやっているとも言える。
とにかく、C4Q/C4Pの割合を今より少しだけC4Pに寄せたら人生がいい感じになった、みたいなサンプルを長い時間をかけて集めていく必要がある。そのための活動を自分はすでにやっているし、それがライフワークでもある。
それをして何が嬉しいんですか
自分は「なんのために創作するの?」「創作すると何が楽しい?」に対する回答として「パーソナリティに触れられる」とした。まあそうすると次は「パーソナリティに触れられると何がいいんですか?」となるのは自然である。この無限後退をどこで手打ちにするかが肝要である。
最新モデルで”C4Q は状態量に価値を置く態度、C4P は経路量に価値を置く態度”と改めて明記したが、「パーソナリティってのはね、〇〇の役に立つんすよ」と効用を約束することは、状態量を追うことになり、成果ありきのC4Q的な姿勢に回収されてしまうリスクがある。成果として活用できるような提言は、そもそもC4Pと矛盾するので難しい。まあ言ってることはだいたいわかったけどさ、結局どうすりゃいいねん?という話になるのだ。
じゃあこのクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)的な態度で作品を作って発表するとしてそのゴールはどうするんだい?という問題はうっすらと感じる人もいる気がしている。
ことと氏がnoteで素晴らしいエントリを書いてくれているが、これもそういった視点でのコメントである。ハンターハンターのジンも「道中が大事で、結果は結構どうでもよかった」的なエピソードを語ったが、過程が本質であるというC4Pマインドを先立たせると、目的地が不在になる。しかし道中を楽しむには、ある程度の熱量を持って行き先を設定する必要がある。ここがややこしいところでもあり、C4Q/C4Pが両輪であるべき証左でもあるのだが、ここまでのC4P作文ではその方法はほぼ書かれていない。
書籍出版後に色々整理したので一応うれしさ暫定結論を書いておくが
自己評価の担保が外の数字から独立する
良質なコミュニケーション、関係構築に役立つ
終わりがない
の3つになる。それとは別に、世界全体の”よさ”の選別権を持ったランナーとしての性質もある。込み入った話は長いのでまあ後ほどメルマガに書きます。
C4Pは余裕のある人間の思想か?
他の項目とだいぶ被るが、「勝者の余裕」的な指摘をもう少し考えないといけない。おれを勝者とか持っている側の人間とするのもどうなんだ、と思うが、経路量を楽しめるのは、状態量の必要(家賃、生活)が満たされている人間である、というのもまた事実である。最近は創作で食う上で、バズとかアテンションエコノミーに乗らないといけないのか?みたいな話がよくされるし、昔から本当にやりたい音楽と売れるための音楽の板挟みみたいなことはよく言われる。一方、売れてるから自己実現のためにできるんでしょ、といった指摘には強く反対したい。
自分の考えを先に書いておくが、”本当にやりたい音楽/売れるための音楽の板挟み”みたいなものに自分はあまり興味がない。本当にやりたい音楽をやればいい。お金は普通に働いて稼げば良く、その手段は音楽である必要はない。”本当にやりたい音楽”の実現に巨大な資本が必要であるケースもあるだろうが、その資本を得る方法は任意であるから、本当にやりたい音楽/売れるための音楽は対立すらしていない。”音楽を”継続しないといけない、とか、”音楽で”稼がないといけない、みたいな考え方がありすぎる時は、音楽を過剰に特別なものとしていることを疑わないといけない。創作で食う上で、バズとかアテンションエコノミーに乗らないといけないのか?と聞かれたとするならば、創作で食わなければバズとかアテンションエコノミーに乗らなくてすみますよ、と答えることになる。
”音楽で”売れた先に、自己実現があるわけではない。C4P的な自己実現の土台になにか前提条件があるとするならば、”人間らしい普通の暮らし”である。成功者である必要はない。
普通に働いて、空いた時間でパーソナリティの探索をすれば良い。「普通に働く」ことができていることを余裕と見なすならば、C4Pは余裕のある人間の思想である。が、そうではないだろう。”人間らしい普通の暮らし”を獲得する手段が創作である必要はない。普通に働いて、できる範囲で創作的に生きれば良い。いわゆるクリエイターとして生計を立てている人を過剰に見上げる態度は、そうではない仕事を見下すような考えにつながるので、しないほうがよい。
普通に働いているのに、必要な時間や資本がないのであれば、それは社会が悪いと言って良いだろう。それは全く別の問題で、自分にその社会構造を変革できる力がないことは明らかである。

