#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
余計なお世話
音楽というのは安易な解析で良し悪しが判断できない程度には十分に複雑で、それが面白いところでもあり、ややこしいところでもある。長い目で見てこの性質とうまく付き合う必要がある。才能に依存するようなものではない手段を持ってして、挫折してしまわず、かつ上手にハンドリングできるような、再現性のある方法を考えたい。
立場上、10代〜20代の若者の様々な音楽活動を見聞きするようになったわけであるが、ここでどうも同じような傾向に基づく、頻出パターンみたいなものがあることに気がついてきた。要するに若者あるあるである。一旦以下に列挙する。
1つめが、特定の楽器演奏の上達にターゲットを絞り、上手さを競うようなスタンスである。音楽に対して、楽器のスキルという軸を通して価値判断を行う。物理的な楽器である必要もなく、ヒップホップにおけるバトルシーンもそうであると言える。最近はSNSに演奏動画を上げることへの機材/心理両面でのハードルが下がっているので、オフライン、オンラインいずれにしても楽器演奏者間での交流も見込めるし、コミュニティもたくさんあり、現に活発である。
2つめが、Tipsの共有された制作手法をなぞっていくことに精を出すタイプである。Future Bassの作り方!リリースカットピアノの鳴らし方!丸サ進行!といった感じで、サウンドメイクからアレンジまで、様々な情報が溢れているので、クックパッドでレシピを調べて料理をするように、プラモデルを説明書に沿って組み立てるように、楽曲を制作することができる。右も左もわからない人間が学習する上でこういったものはありがたい。レシピは山のようにあるし、新規供給もされるので、当分はネタ切れの心配もない。レシピをなぞるということは、既存のトンマナに準拠するということである。ボカロのランキングなどを見ていると、音色や編曲手法に妙な一致が見られることが多いが、これは参照点が似通っていることからくる。共有しているものが多いため、コミュニケーションが容易であり、シーン形成も早い。
3つめが、身の身ひとつから出てくるものこそが本質であるといった考えの下、弾き語りなどをすることである。デジタルでの処理やポスト段での編集や加工をあまり好まない傾向を持つ。YouTubeチャンネル『FIRST TAKE』の成功も記憶に新しいが、無加工、一発録り、録って出し、という行為を、純度が高く、価値のあるものとみなす。自らの身体を持って行為を行うことも重要であるから、様々な表現形態の中でも特に歌唱と相性が良く、シンガーソングライターのような活動形態が適している。全国に弾き語りアーティスト中心に扱うライブハウスが存在することからも、かなり人口が多いことがわかる。
極論、音楽プレイヤーにおいて、全く該当しない人間を探す方が難しいのではないかというくらい、これらの態度はマジョリティであるといってよい。そして、これらを一般化すると、共通項というか、通底する欲望が浮かび上がってくる。どれも、「複雑なものを単純化して取り扱いたい」、「コミュニティに属したい」という思いを伴っている節があるのだ。
例えばRed Hot Chili Peppersは豊かな音楽性に裏打ちされた素晴らしいバンドであるが、そこに特に触れずに、コピーのネタとして、Can't stopのギターリフが弾けるかどうか、スラップを上手にできるかどうかで見るとシンプルな競技対象になる。練習したやつだけがクリアできるゲームにできるのだ。Youtubeで「ライラック ギター」と検索すると、山のようにギター演奏動画が出てくるが、重要なのはイントロが上手に弾けているかどうかである。Mrs. GREEN APPLEの楽曲全体の複雑さ(これは演奏やアレンジのテクニカルさを意味しません)へのまなざしを能動的に薄めることと引き換えに、既存の楽器演奏コミュニティへの帰属意識を獲得できるのだ。
ここ数年のボカロ復権を考えても、トンマナとプラットフォームとコミュニティが同時に提供されるわけだからそれはそれは魅力的であるに決まっている。自由に音楽と映像を作って、自由に活動してください、と言われても大体の人にとっては選択肢が多すぎて、やることを決めるのも、顧客を獲得するのも厳しい。ボカロという言葉が、魔法のように、ジャンルの傾向や、キャラクターの表象、投稿先などの作法をやんわり統一してくれる。ある程度選択肢を絞ってもらうことで、共通言語が生まれ、コミュニケーションが活性化される。
弾き語りにしたって、”弾き語りをしている人”というレッテルを自らに積極的に貼ることで、プレイヤー間のやり取りや、リスナーの受容の補助をする。レッテルをみて、ようやくブッキングが来るともいえる。ややこしいDAWの操作は一切覚える必要がない。編集もしない。生の良さが毀損されるから。そんなことより属性を示すほうが話が早い。オリジナル曲を歌うより、既存の人気曲を歌った方が、より既存のコミュニティに参画しやすい。
ここまで整理し終えたタイミングで、恐ろしい気持ちになってしまったのである。クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)を標榜し、みんなパーソナリティを取り出すために曲を作ろう!と言いたいのに、そもそもの問題として、実は、本当の意味で曲を作りたいと思っているやつなんてほとんどいないのだ。みんな、複雑なものを複雑なまま取り扱うことを避け、上達が測定できる程度に単純化して、友達ができればいい。若者が継続的に曲を作ることにおいて、そのモチベーション維持が難しいと思っていたのに、現実を紐解いていくとその作曲へのモチベーションの存在自体が疑わしいのである。音楽がやりたい人間はごまんといる。一方、曲を作りたいやつは実はあまりいない。この間に、果てしない距離がある、というのがだんだんと分かってきたのだ。
ギターの練習のみに熱心に取り組んでいる人に「音楽という複雑な対象を単純化している傾向があるから、もっと視野を広げた方がいいよ」というのも、レシピをなぞった作曲をして曲が作れた人間に「なんでその制作手法を選択したのか真剣に考えてみようか」というのも、あいみょんの曲を上手に弾き語りしてバズっている人間に、「自分の言葉で、オリジナルな歌を歌ってみようか」などというのも、全て余計なお世話なのである。みんな界隈に属し、上手の喜びを噛み締め、友達もできて、楽しく過ごしているのだ。「パーソナリティ取り出そうやおじさん」は「余計なお世話おじさん」になるリスクを十二分にはらんでいる。ハラスメント警報が鳴り響く。おれの存在意義はどこにある?
本当に自らの個人性を正しく取り出せているとするならば、それは既存のものとは異なるオリジナルなものであるから、取り扱い方がわからないのは当然だ。取り扱いかたが不明なものを生む行為は、いわゆるインプレッションを稼ぎにくい。数字が稼げない、ということはチヤホヤされないということである。人との共通点を探すことから始めないといけないので、コミュニケーションも大変である。人気も出ないし、説明も面倒であるので、「複雑なものを単純化して取り扱いたい」「コミュニティに属したい」というどちらとも噛み合わない。個人性をもってして曲を作るという行為は、若者の目先の欲望を直接的に叶えることはないのだ。
この現実に真剣に向き合って考えたのが神保町の美学校でやっている「サウンドシェア」である。曲を作っている人間を集める。これで「コミュニティに属したい」需要に立ち向かう。中年から子供まで、年齢に幅があるのが売りである。創作物の要素や巧拙ではなく、場所と人のマインドに帰属意識を見出す。作った曲を2軸マトリクス(縦軸をポップさ、横軸を踊れる度など)に当てはめていくというワークショップで「複雑なものを単純化して取り扱いたい」という要求を満たす。しかしながら、あくまで焦点を当てるのはめいめいのパーソナリティで、2軸での単純な比較を繰り返すことで、複雑さに向き合おうと頑張る。
結局、創作行為の上位のレイヤーには複雑な抽象概念がふわふわ浮かんでいて、そいつ自身をやり取りすることを常に望んでいる。決して安易な言語化では、それはデリバリーできないということを認めた上で、それでもなお、お喋りをする。世の中が、実は真の意味での創作行為に興味がないことに薄々気がつき始めている。でも、だからこそ、プレゼンをすることに価値がある。手間暇かけてこんな文章を書くほどに!強制はしないが、私は面白いと信じてやまない。やってみてくださいよ、騙されたと思って。