The Blue Envelope #52
じゃあお前がやってみろよ
#C4P_demo
本に載るかのらないか当落線上の原稿1
じゃあお前がやってみろよ
ワールドカップで絶好のチャンスが来た、しかしシュートはあさっての方向に飛んでいって外してしまった。有名バンドの新譜の評判がふるわなかった。経営者が巨大な新規投資をして事業を始めたが、大赤字になってしまった。こんな時に、「いや、決めろや!」とか「売れて自分を見失ったな」とか「やる前から失敗するの予想できたやろ」などと言いたくなってしまう時がある。世の中には、ベッドでごろごろしながら、その手の指摘だけをするインディの自称諸葛孔明みたいな人間がたくさんいる。そして、そんなやつらに対して、実際にプレイしている人間たちは、心の中で「じゃあお前がやってみろよ」と思うわけである。
成功者のポジショントークとして、「何もせず部屋で文句だけ言ってる雑魚と違って、おれは行動をして成功をつかんだ」みたいな話はそこらじゅうに溢れている。自称孔明は口だけのカスで、リスクを取ったやつだけが勝利できる。もちろんそれは正しいのだが、これも結局、成功をつかんだおれの方が、もじもじしてる引きこもりより偉いというのが自明であるという考えに基づいていて、C4Q的な行為と言える。
尊大な創作者の欺瞞として、「作ってないやつが口出してくんなよ」という姿勢がある。世の中を創作する側とそうでない側に分け、後者を叩く。「じゃあお前がやってみろよ」が意味しているのは、「やっていないお前の評価には価値がない」ということである。裏を返せば、行為の有無を評価権の条件にしている。ただ創作者であるかどうかだけで、鑑賞専門の人間を下に見出すともうなにがなんやらである。
問題の根はもう少し深いところにある。自称評論家も「じゃあお前がやってみろよ」側も、「正解」が存在するという前提を共有しているのだ。あの場面ではシュートを決めるのが正解、新譜はこのスタイルでいくのが正解、新規事業は黒字にするのが正解。正解に照らして行為を評価する。C4Q的な世界では、正解に近づいた者が評価され、遠かった者は批判される。行動や経験すらもない人間は論外。この枠組みの中では、「じゃあお前がやってみろよ」は有効な反論であり、自称孔明は反論の余地を持たない。
じゃあ鑑賞しかしておらず、該当行為の経験が乏しい人間はどうすればよいのだろうか。
本書で繰り返し述べてきた通り、鑑賞もまたパーソナリティの発現である。同じ楽曲を聴いて異なる感想を持つこと自体が、知覚と選好の個人差の帰結であり、パーソナリティはそこにも宿る。であるならば、自称評論家の批判行為の中にも、パーソナリティの発現は存在している。新譜に対して「売れて自分を見失った」と感じるのは、過去の作品との比較を通じた鑑賞行為の結果であり、その人間の耳と価値判断が反映されている。ここまでは問題ない。
問題は、鑑賞のパーソナリティと制作のパーソナリティを混同するときに起こる。「あの新譜はゴミだった」は鑑賞のパーソナリティの正当な発露である。素人の感想であっても、耳の肥えた評論家の意見であっても、鑑賞者が自分の反応を語っている限り、それは正当である。一方、「ああすべきだった」「こうすれば売れた」は、感想ではなく制作判断への介入である。鑑賞で得たものを、制作の正解として差し出していることが問題なのだ。見ることと作ることは異なる行為であり、異なるパーソナリティが発現する。どちらが上ということではなく、領域が違う。
映画を一本も撮ったことがない人間の映画評が無価値であるはずがない。料理を作らない人間の「おいしい」「まずい」に意味がないはずがない。映画を見て「自分ならこのシーンをこう撮る」と想像することは、鑑賞の中で最もクリエイティブな瞬間の一つである。「おれならこうする」と思うこと自体は、パーソナリティの発現として極めて豊かな行為である。ただ、それが「お前はこうすべきだった」に変換された瞬間、他人のパーソナリティへの介入になる。そいつがどうすべきかを決められるのはそいつのみである。
逆に、「じゃあお前がやってみろよ」と言い放つ側にも同じことが言える。行為の有無で人間を切り分け、やっていない側の感想を一律に無効化するのは、鑑賞パーソナリティの全否定である。聴いてくれている人間の感想にもパーソナリティがある。プレイヤーだけが偉くて、観客は黙っていろ、という態度は、C4Qの成功者ポジショントークを、創作者/非創作者という軸にすげ替えただけのことである。
鑑賞者として感じたことを語る。制作者として選択した理由を語る。それぞれが、それぞれの蓄積の上で、語る。寝転がりながらで構わない。ただ、自分の領域を偽らず、正直に語ることだ。

