The Blue Envelope #51
目的は手段です
#C4P_demo
書籍の編集作業に入るので、あと数本でここでのデモ公開も終わります。寂しいね!
目的は手段です
「手段が目的になっていませんか」という指摘は、大体が否定的な意味である。特に、成果物のクオリティを高めたいという明確な意思がある際は、手段が目的になってしまうことを意識的に避ける必要がある。
例えば、楽器や音楽制作に関わる機材を、楽曲を生み出すためのツールとのみ認識すると、高価なギターをたくさん所有しているがろくに弾きやしない人や、アナログ機材にこだわった結果作業スピードが遅くなり、試行錯誤の回数が減って追い込みが甘くなるなんて行為は、手段が最終成果物のクオリティ向上に使えていない。もしくはそれを通り越し、うんちくを垂れるのが生き甲斐になりすぎて、ついにはろくに曲を作らなくなるなどといったこともありうる。C4Q的な立場でいくと、目的は「なるべくクオリティの高い曲を完成させる」ということになるので、こうした行為は極めて無駄で、愚かなムーブとみなされる。クオリティを高めることを目的にすると、高価なギターは良い演奏と良いサウンドのためにあるし、アナログ機材はデジタル処理に比べて音が良いから使われるべきである。完成していないものは、外部世界の評価の土俵に乗っていない、という意味で価値はゼロに等しい。人に見せない限りは市場クオリティのフィードバックもなく、他の作品との相対化もなされないので、自品のクオリティの向上に活かすのも難しい。クオリティを第一に考えると、完成の手前の手段それ自体を目的にして、それを愛でる行為はほとんどの場合で悪手となる。
上記のような理由で、完成前のプロセスで気持ちよくなってしまって先に進めない人間は「手段が目的になっちゃってますね〜」と諌められるわけだが、これは暗に、目的の達成が手段よりも偉いという価値観があるということである。そして、それが自明であると思っている人は多い。自覚して、そのつもりでやっているならそれでよいが、実は絶対的に正しいものではない。C4Pを志向するのであれば、手段は目的にしていいのである。
音楽制作をするとなると、最終的には成果物として楽曲が完成するわけである。ここで、前章で述べた通り、C4P的な態度下では、その完成は自身の宣言のみで実施される。いよいよ屁理屈みたいな話になってくるが、ギターを買い集め、ろくに弾きもせず、眺めているだけのおっさんが、これにて完成や!といえば、(それがなんなのかはさておいて)完成であり、そこにパーソナリティは発現している。
音楽を作るプロセスを考えた時に、完成するかしないか、というのは最後の一押しの段階になってくる。「なるべくクオリティの高い曲を完成させる」というのが、自明な、絶対的な目標とは限らない。その上で、パーソナリティとは選択の連なりであると言う定義に立ち返ると、その途中でずっと遊んでおいてもよい。制作の過程で選択は連なっているわけだから、C4Pとしてはそれで十分なのである。C4Pは“無為”の肯定ではなく、“選択の自覚”を肯定する。それが録音されることもないまま、一生シンセサイザーのつまみをひねって喜んでいても、それがあなたの選択の結果であるのだから、何の問題もない。弾きもせず眺めているおっさんでも良いのだから、音楽を作らず聴いているだけでも構わないだろう。「作らないけど創作周辺にいる人」にもC4Pが適用できるということだ。
完成させなくてよい、というのは完成を否定しているのではない。クオリティを高めたいのならば、一つでも多くの作品を完成させ、客観視し、フィードバックさせて己の腕を磨くべきである。そしてそれによる技術の上達はまた多くのパーソナリティの発見に繋がる。一方で、C4Pでは、完成とは自らの判断で宣言するものであり、クオリティの閾値が決めるものではない。であれば、プロセスのどの時点で宣言してもよいし、宣言しなくてもよい。宣言した瞬間に、そこまでの選択の連なりが一つの作品になる。宣言しなければ、選択の連なりは連なりのまま、あなたのパーソナリティとして蓄積され続ける。どちらにしてもパーソナリティは発現している。
C4Pだけを極端に推し進めれば、永遠に曲を完成させずにホクホクしている謎の人間だらけになってしまい、世の中からレベルの高い作品が消滅してしまうかもしれない。逆にC4Qだけの世界だと、鑑賞専ギターコレクションおじさんの価値は著しく低下してしまう。要するに、全てはバランスであり、C4P/C4Qの蛇口をちょうどよい湯加減になるまで調整しろということだ。みんなC4Qの蛇口ばかり見ているので、もう一つあることを思い出して欲しいという話である。

