The Blue Envelope #50
まねっこ
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まねっこ
「誰かの真似をする」というのはそれ自体極めて重要な行為である。親の喋りを真似て言語を習得し、好きなスポーツ選手のプレーを真似、憧れているアーティストと同じギターを使う。
創作行為においても模倣の過程は極めて重要である。模倣によってなされることは大きく分けて二つあり、片方は優れているものを参照することによるクオリティの向上であり、もう一つは自分の認知や好悪の理解である。
模倣それ自体に善悪もなにもなく、上記の2つが実行されているだけである。そしてそのどちらも大変に効果があるので、基本的にやればやるほどよい。問題が生じるとするならば、著作権の侵害くらいのものであるが、それは市場における利益保護の話であり、模倣という行為の本質とは別の次元にある。
一方で、絶対にやってはいけないこともある。もっとも悪き行為はなにかというと、他人、ないしは先人が成し遂げた手柄を、さも自分の成し遂げたことのように振る舞うことである。これは歴史を軽視し、他人のプライドを踏みにじる行為である。自分が考えたり、やってもいないことを、自分がやりましたというそぶりを見せるのは、単純に嘘つきであるのでお話になっていない。
ここで、自分の作品のどこまでが既存の要素に立脚していて、どこからがオリジナルかを判断するのは相当難しいということを理解する必要がある。他の作品からの影響は、自覚下で、あるいは無自覚に現れる。かなりの数の音楽を聴き、自作を高度に相対化してようやく、自分特有の差分が把握できる。自分の曲が凡庸なのか非凡なのかを理解するためには、かなりの能力が必要である。なので、他人の作品をパクりと糾弾したり、自分のオリジナリティを誇ったりする前に、自分の認知が十分な相対化の過程を経たものかを検討する必要がある。どれだけ謙虚で居ても、いすぎることはない。
模倣や参照のプロセスは、自己へのポジティブな影響だけでなく、マクロでいうと投票行動のような側面もある。スターに憧れて、似たファッションを身につける。同時代にそうする人間が十分に多ければ、それはトレンドとなり、また次のトレンドに影響を及ぼす。認知をし、好悪の判断を下し、創作物にフィードバックする、というループは、マクロで見ると、ふるいのような選択と淘汰の機能を持っている。好きな音楽を聴く、あるいはそのスタイルに影響を受けて曲を作るという営みは、自分というフィルターを通して何かを漉して、下に流すような性質があるのだ。
要するに、認知の構造も、好悪の構造も、バトンリレーのように、上から受け取り、下に回していけるのである。自分が良いと思えるようなパーソナリティの様式を絶やさずに維持できるかどうかは、いま創作している、現代の全プレイヤーの選択によって決定される。生物の進化と遺伝子のアナロジーとしてみてもよいかもしれない。様々な種がランダムに生まれ、淘汰の下に存続する種が決まる。構造は同じだが、遺伝子と比べて、パーソナリティはもう少し受け渡しを自覚的に実施できる。マクロで見ると多数決のような要素もあり、それによって創作物の時代感みたいなものが形成されていく。
創作行為というのは、それを望まずとも、先行走者から選択的に何かを受け取り、そして選択的に後続に受け渡すというプロセスを経る。よきアーティストというのは、そのプロセスがパワフルに回っている。
我々はパーソナリティを抱えた走者である。参加とか不参加とかを問われるタイミングなどなく、もうすでにランナーであり、自覚しているかどうかというだけの話である。後世へのバトンの受け渡しは、あなたがなにを鑑賞し、なにを作るかによってのみ決まる。

