#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
いろんなデカさで選べ!
自炊において、自分はかなりの頻度でカレーを作って食べているわけであるが、あまりに長い自炊カレー歴にもかかわらず、未だにスパイスからカレーを作るなどの行為に興味を持ったことすらない。市販のルウと、材料を何にするかのみが変数であり、それらを選び、ベーシックな方法で作る。初めてカレー作りにチャレンジする子供と私の間において、最終完成物のクオリティにそこまで差は出ない。一方、スパイスからいくと変数の数は爆発的に増える。どのスパイスを使うのか、何種類使うのか、いつ入れるのか、テンパリングはするのか、なんの油を使うのか、などさまざまな要素が絡み合い、最後にルウを放り込むだけの場合とは違い、過程が最終形態を大きく変化させる。選択肢も極めて多く、その結果、技術や経験の介入の余地が大きくなるわけである。
世間においては、スパイスカレー的行為は本格的な営みで、ルウからのカレーはライトなものであると捉えられている傾向にある。自己紹介で、「カレーを作るのが趣味で、日々カレー作りをしています!」と言われたとすると、なんの説明も受けていないにもかかわらず、大半の人はスパイスカレー的行為を想像してしまうであろう。わざわざ自分から、趣味である旨を述べているのだから、まさかバーモントカレーににんじんとじゃがいもと豚肉を入れただけであるとは思わない。
この思考自体が変であるとは思わないが、もう少し緩和しませんか?というのが私の提案である。もう少し正確にいうと、工程のレイヤーの深さと、選択の価値が対応していると無邪気に思い込むのをやめよう、ということになる。
スパイスやハーブ、野菜や肉などの素材があり、切ったり炒めたり煮たりの工程を経てカレーになる。要素でいうと、玉ねぎがあり、みじん切りにされ、飴色になるまで炒めて、煮込まれる。手付かずの生の玉ねぎは無限の可能性を秘めていて、どんな料理にもなりうるが、ひとたび飴色玉ねぎになってしまったら、加熱前に遡りオニオンスライスサラダになることはできない。工程が後段になるにつれて、最終形への接近と引き換えに、選択肢が狭まっていく。
そして、世の中では、みじん切り済みの、なんなら十分に加熱され飴色になった状態の玉ねぎも買うことができるが、それらには本格派ではない、もっというとサボり、ズル、手抜き、といったイメージが付き纏う。大手メーカーに提供されたルウを使うよりも、自身でハーブやスパイスを調合した方がクールに見えるし、血生臭い豚骨を丸一日煮込むラーメン屋と、市販のスープで済ませる店があったら、前者の方が立派に見え、うまそうである。それは自明のように思える。が、本当にそうだろうか?
音楽の場合を考えよう。キックとスネアとハイハットを叩き、録音する。組み合わせ次第でハウスになったり、レゲエのリズムになったりする。そのリズムの塊がさらに時間軸上に配置し展開が作られることで曲に至るわけである。昨今はサンプリング素材のサブスクリプションサービスが一般的になって久しく、録音済みの単発の素材だけでなく、シーケンスが組まれ、いい感じのバランスでハウスのビートになっているもの、さらには上物も足され、もうすでに曲のようになっているループも簡単に手に入るようになった。要するに音楽制作においても、生の玉ねぎと飴色玉ねぎ、なんならレトルトカレーまでが入手可能な状態になっているのだ。そしてこの業界においても、そういった工程飛ばしの既製品を忌避する、アンチ・カレールウ的な考えを持つ人は割と多い。さらにいうと、音楽においては、そうやって完成した曲たちを順番に再生するDJなる存在もいて、カレールウどころか他店のカレーを買ってきてコースを提供しているような状態である。そしてやはり、それを浅ましいと考える人が世の中にはまあまあ存在している。
要するに、小さな要素から選択を繰り返し、それが入れ子構造になって大きな要素を作り上げていく、というのは創作行為の普遍的な構造であるわけであるが、工程のどこかの段から、偉くない、サボっている、みたいな視座が現れる傾向があるのである。単発のドラムの素材からビートを組むのと、ビートの連なりで曲ができるのと、曲の連なりでDJをするのは、本来は等価な入れ子構造がフラクタルに存在していて、選択の構成単位のデカさが違うだけでであるはずだ、というのが自分の考えであるが、世の中の総意は現状そうではなく、入れ子構造の階層が上がり、選択の粒度が十分にデカくなると、どこかで”創作”ではなくなってしまう、というムードが存在している。スパイス、ルウ、レトルトパウチ、カレーライス。体感的に、少なくともルウ以下に干渉しないと世はクリエイティヴと認めてくれない。イベントのチラシを作るので、イラストから書き下ろしました、は創作、いらすとやさんとAdobe Stockの既製素材を並べて作ったものはNOT創作。
下層へ潜るほど本格的、というヒエラルキーが存在し、それに世が依存するのは、能力が高い方が偉いというC4Q的視点が支配的であるからであると考える。ローコードツールを使わないと何も作れないやつよりアセンブリから実装ができるプログラマの方がスキルが高いのは明確である。自分はスパイスとハーブを渡されてもどう組み合わせたらどんな味になるのかも想像もつかず、それを経験的に知っているシェフの方が技術が高いのは言うまでもない。最終形から遠いところにスタート地点を設定すればするほど、触れる変数が増加するため、完成物を想像し最適化する難易度が跳ね上がるのは明らかである。工程の深さを価値とみなす考えの根は、難易度が高い、より多くの変数を取り扱うことからくる”すごさ”を指標にしているからではないだろうか。
このような、最小要素から生成するほど純度が高い、という考えは砂上の楼閣であると思っている。なぜなら、その「最小要素」の粒度は実は任意だからである。料理をする上で、にんじんを栽培するところからやっていないとワックだ、と言われることはまずない。野菜を買ってくるところから始めるのが料理と呼べる妥当なスタート地点とみなされているように思えるが、カット済みのパックに入ったカレーの具セットみたいな加工商品から始めるのと何が違うのか。すごさの高低を問題とするC4Q的視点を解体し、創作を粒度の異なる選択の連鎖と見なすなら、どの段階でも等価である。選択をする限り、パーソナリティが取り出されるからだ。カレーライスという最終製品の味を想像するという点において、スパイスを選ぶ行為と、バーモントカレーかこくまろかを選ぶ行為は、後者の方が圧倒的に簡単である。スパイスからカレーの味を想像できるやつはすごい。ルウを選ぶのは大してすごくない。それは認めた上で、すごくない方の、すごさ以外の価値を見直す必要がある。粒度にかかわらず、選択をすると個人性が発現する。レイヤーの深さ如何によってその効能はさして変わらない。創作行為を選択・配置の連鎖の入れ子構造と捉え、全てのレイヤーに等しい価値を見出す姿勢は、クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)に通ずるのだ。
さあ辿り着こうじゃないか、市販のルウで、なんの変哲もないカレーを作り、カレー作りが趣味だと言える世の中に!!(おれのカレーには、たくさんのトマトと肉が入っていておいしいです。冷凍したいのでじゃがいもは入れません。)