The Blue Envelope #48
ベースの音ってどれですか
本章で「認知フェーズ」と呼んだものは、数理モデルにおける知覚写像Φi(ファイ)に、「好悪/価値判断フェーズ」と呼んだものは選好写像Ψi(プサイ)に対応する。認知フェーズの拡張はΦiの変容(意味空間Siの次元追加)、価値判断フェーズの更新はΨiの変容(選好潜在空間Viの地形変化)である。パーソナリティがこの二つの写像の組み合わせに宿り、両方が創作を通じて変わり続けるという構造は、三層射影モデルの動的側面として定式化している。数理モデルが先行し、作文で追いかけるという人生初のエキサイティングな体験です。
#C4P_demo
ベースの音ってどれですか
音楽に興味ない人がたまにする話として、「バンド演奏においてベースの音がどれなのかよくわからない」みたいな話がある。再生環境の問題もあるし、ボーカルなどに比べると聞き取りづらいのは確かである。正直、興味がない分野に対して人間は結構残酷である。漫画『こちら葛飾区亀有公園前発出所』のとある回で、御免ライダーの超合金(おもちゃ)のバージョン間の違いを嬉々として語る両津に対し、中川が「全部同じじゃないですか」と困惑する回であるが、まあそんな感じで、こういう話はほぼ認知の解像度の問題と言ってよい。
ベースがなにをやってるかがよくわからない理由として、まずベース単体の音をちゃんと聴いたことが無いからというものがある。ピザだけを食ってトマトの元の姿を想像するのが困難なように、楽曲から特定の要素を選択的に認識するのはなかなかに高度なことである。
一方で、解決手段はなかなかに簡単である。ベースの音がよくわからない人間を音楽スタジオに連れていって、キーEでセッションしながらそいつに4弦の開放を適当にベンベン鳴らして貰えば良い。それくらいのレベルの体験が伴えば、ベースは聴こえないから意味ないみたいなことを言い出すことはなくなるだろう。そして、ひとたび分かってしまえば、そこから先の音楽の視聴体験は、全てそのベースを理解した状態によって行われる。
基本的にはこういった変化は非可逆で、一度聴こえるようになると、もう聴こえなかった頃には戻れない。スタジオから帰って、いつも聴いている曲を再生すると、ベースが聴こえる。曲は何も変わっていないのに、体験による認知の変化によって、同じ音の塊から拾い上げられるものが増えていく。これは、その人にとって音楽を聴くという行為が、ベースという概念の導入によってより複雑になったということだ。この手続きは、知覚する全てのものに起こっているので、基本的には生きていると、少しだけ世界が複雑になっていく。教養とかセンスと言われるものは大体はこの認知の複雑さを指していると言ってもよい。
そして、ベースの音が聴こえるようになったとして、「このベースラインめちゃくちゃ好きだな」と感じるかどうかは、また全然別の問題である。こち亀において、作中における特撮の名作「御面ライダー」の違いがわからなかった中川が、そのテレビシリーズを全て視聴し、玩具の超合金シリーズの違いが理解できるようになったとして、じゃあそれを欲しくなるかというとそうではない。重要なのは、認知フェーズと好き嫌い価値判断のフェーズが独立しているということである。
ベースが聴こえるようになった二人の人間がいたとして、片方はルート弾きの安定感に心地よさを感じ、もう片方はメロディアスに動き回るフレーズに興奮するかもしれない。どうやってもなんの興味も持てないかもしれない。聴こえているものは同じなのに、好き嫌いの反応が違う。認知フェーズでは同じところまで来ているのに、価値判断フェーズで分岐する。
似たような話で「このアーティストの曲は全部一緒に聴こえる」という発言は、二通りに解釈できる。ひとつは、その曲がなにをやっているかがそもそも聴こえていない場合。拾い上げるための認知の枠組みがその人に存在してないケースである。もうひとつは、なにをやっているかはちゃんと聴こえている、しかしそれでもなお好悪が反応しない場合である。前者は経験や学習で変わりうるが、後者はもっと根が深い。自分でも理由がよくわからないまま、好きだったり嫌いだったりする。
この好悪の部分が個性そのものであるのはイメージしやすいが、実は認知の部分も同じくらい重要である。この認知の解像度は能力とか努力の不足と捉えられがちであるが、実は個々人の性質に大きく立脚している。身体的なものはわかりやすく、ろう者にとって聴覚情報の認知フェーズは、そうでない人とは構造が異なる。世の中にはパクチーを石鹸の味だと感じる人がいるらしいが、あれは好き嫌い以前の話で、遺伝的に認知の構造が違うとのことである。同じ葉っぱを口に入れたときに拾い上げている情報がそもそも異なるが、そうでない人からすると想像もできない話である。認知の際は、好悪のフェーズと同じくらい、個性が反映される。
そして、認知と好悪は完全に独立はしていない。ウニが嫌いという人が「高級なうにを食ったら変わるから」みたいなことを言われて高級なうにを食ったが、やっぱり苦手で理解することができなかった、みたいなケースは、認知の低さと好悪のネガティブさが相互に影響しあっている。パクチーの例も認知の構造が好悪に影響している。要するに、認知のフェーズと好悪のフェーズの2つが存在し、この2つがパーソナリティを形作るのだ。
自分は、メジャーキーの曲ばかり作っている。意図してそうしているわけではなく、作っているとそうなるのだ。メジャーキーという概念は、認知という意味ではもうとうの昔に獲得したものである。しかし、自分がそれを好んで選び続けていて、それが一般的なレベルを大きく逸脱している事実に気づいたのは、相当な数の曲を作ったあとのことである。逸脱は最初からであった一方で、相対的にそれを理解したのはだいぶ後であった。価値判断フェーズの自覚が遅れていたということだ。
創作をやっていると、この二つのフェーズが両方とも動く。広告音楽を作りはじめて10年以上経つが、流石にそこでは一般的な割合でマイナーキーの曲も作ることになる。そもそも嫌いだと思ったこともないし、作る機会を与えられることでより高度な曲が作れるようになる。外的な圧力での認知フェーズの拡張である。そして、その過程で魅力に気付いたりもする。これは価値判断フェーズの更新である。
認知の精度が上がり世界が複雑になることと、好き嫌いの地図が書き換わり自分が更新されること、このどちらも非可逆で、そしてどちらも自分では完全にはコントロールできない。
二つのフェーズが動き続けるということは、自分にとっての”よさ”が固定されないということである。昨日の最高が、明日にはそうでもなくなっているかもしれない。創作というのは、動くゴールポストに向かってドリブルしていくような行為である。だから最適化できないし、正解に向かって一直線に進むこともできない。不便ではあるが、これが創作のおもしろさの正体であると思っている。
前章で、技術が上がると選択肢が増え、パーソナリティが反映される余地が広がると書いた。あれは認知フェーズの話である。聴こえるものが増えれば使えるものが増え、なにを使い、なにを使わないかの選択に個人差が出る。一方で、価値判断のフェーズは、技術の向上とは独立に、創作や鑑賞を重ねることで勝手に動いていく。意図的に鍛えるというより、気づいたら変わっているものだ。
この二つのフェーズが、両方とも個人に属していて、両方とも変わり続ける。変わるのであれば、それを楽しむほかない。ボジョレー・ヌーボーのキャッチのような態度が好ましい。今年の自分のパーソナリティは、過去10年で最高と言われた昨年を上回る出来栄えです。

