The Blue Envelope #47
アウトオブスコープ
#C4P_demo
アウトオブスコープ
サラリーマン時代に、なんとなく目安として考えていたのが、”20時までに家に帰る”ということであった。残業して、帰りに牛丼屋寄って飯食って、みたいなことをしているとあっさりとすぎてしまうのが20時である。なんでこんなに20時を気にしていたかというと、体感上、帰宅が20時以降になっている時期は全然曲を作れていなかったからである。
体力や気力は人それぞれであるが、あくまで自分の場合、継続的に音楽制作に取り組める目安がそれくらいであった。逆にいうと、いま新卒に戻って就職先を選ぶとしたら、20時までに帰れる会社に入れば、再現性を持って音楽制作を続けられるということである。残業時間でいうと大体月30時間、だいたいそれくらいの忙しさが、自分がコンスタントにリリースを続けられる限界であった。20代の時の話であるので、30代半ばとなったいまはもっと頑張ることができないであろう。
C4P作文で書かれた内容が機能するには、最低限の条件がある。制作環境にアクセスできること。それを扱える身体の状態にあること。制作に充てられる時間が存在すること。そして、それら全てを維持するための経済的基盤があることだ。自分はこれまで、C4Qイデオロギーの荷重を降ろせ、質保証の呪縛から自由になれ、パーソナリティと出会うために創作をしよう、と繰り返してきた。それらはすべて、上に列挙した条件を満たしている人間に向けた言葉である。
例えば、慢性的な疾患を抱えている人間にとって、制作行為そのものが身体的に不可能になる期間がある。PCを開く体力がないとか、そういう次元の話である。経済的困窮もそうだ。制作環境の維持にはコストがかかる。機材、ソフトウェア、電気代、通信費、そして作業するための住居。ダブルワークで可処分時間がほぼゼロの人間もいれば、介護や育児で自分の時間が消滅している人間もいる。これらは、悲しいことに複合する。身体を壊して働けなくなり、経済的に困窮し、制作環境を手放す。あるいは逆の順序で、同じ場所に辿り着く。
そもそも、制作に取り組める人間である時点で、人生麻雀においては好配牌である。ここで、そうではない人間に対して、C4Pは基本的には何も解決策を提示しない。
これはイデオロギーの問題ではなく、物理的な制約の問題だ。別章で、創作の苦しみは主にC4Q圧力の内面化であると書いた。質保証の荷重を降ろせば、あとは工数に対する物理的な稼働の大変さのみで、創作特有のものは実はあまりない。しかしここで扱っている問題はそれ以前の話である。C4Pの態度を完璧に内面化していても、PCを開く体力がなければDTMはできない。綺麗事や態度だけでは身体は動かないのだ。
C4Pは態度の理論であり、社会福祉の理論ではない。制作環境へのアクセスそのものを保障する力は、この理論にはない。制約は外的なものであり、その中でどう生きるべきかを指示する力はなく、何を選択するかは本人のパーソナリティの問題である。
救いとして、パーソナリティは、創作行為のみに宿るわけではない。電車の中で曲を作るのと、曲を聴くことでは当たり前だが後者の方が圧倒的に楽である。制約がキツい人にとっては、鑑賞行為が、C4Pの実践において比較的”マシ”な選択肢になる。
鑑賞もまたパーソナリティの発現である。同じ曲を聴いて異なる感想を持つこと自体が、知覚と選好の個人差の帰結であり、パーソナリティはそこにも宿る。制作ができない期間であっても、音楽を聴き、何かを感じることを通じて、知覚や選好の変容は継続しうる。聴こえなかった音が聴こえるようになる、以前は好きだったものに違和感を覚えるようになる、といった変容は、制作をしていなくても起こる。制約が緩和されて制作を再開するとき、中断前とは異なる耳と感性で臨むことになる。長い中断を経て曲を作ったら、以前とは全然違うものが出てきた、という話は珍しくない。それは衰えとも成長とも違う。変容である。その変容の履歴もまた、パーソナリティの一部である。
とはいっても、制作できない状態が辛いと感じている人間に対して、鑑賞でもパーソナリティは発現するから気にするな、と言うのは無神経だ。制作したいのにできないという苦しみは、C4QともC4Pとも関係のない、もっと手前の、人間としての苦しみである。このテキストの守備範囲ではないが、苦しみが世の中には存在しており、それを理論で回収しようとするなんてことはできない。
唯一言えることは、どのみち、自分に対してのハードルを下げることである。友達からのどうでもいいLINEに対して、スタンプのみで返答するときに、パーソナリティへ思いを馳せながら行うことで、その選択は創作行為となる。本書で繰り返し述べてきた通り、創作とは選択の連鎖である。選択の規模が小さくなっただけで、構造は同じだ。帰り道にどこを見ながら歩くか、コンビニでどの水を買うか。全てそうである。実際に、絵を描いたり、小説を書いたりなどの一般的な意味での”創作”を実施するにしたって、とにかく、導入した努力に対してなんらかの見返りを期待する態度さえやめることができれば、これもまた”マシ”な選択肢になりうる。残念ながらヘボ選択に上質さは着いてきづらい。自分に甘く生きるのはクオリティとのトレードオフであるが、C4Qのみの世界よりは、C4P的な受け皿があったほうがよいだろう。
本書は、制作環境を持っている人間に向けて書かれている。それは著者の限界であり、本書の射程の限界である。本としてはそうだが、それは射程の外にいる人間にパーソナリティがないことを意味しない。パーソナリティは全ての人間に、常にある。制作という行為は、それを取り出し、蓄積し、認識するための強力な手段である。
制作ができない状態にある人に対しては、それを強要しない。逆に、制作ができる状態にあるならば、その条件を軽んじずに取り組むことができればよりよいだろう。

