The Blue Envelope #45
脱凡庸
クオリティ整理のために追記した2章目を公開します。
C4P_demo
脱凡庸
自主的な活動と、大学での講師業を通して、年二百曲程度の、いわゆるクオリティが高くない曲を聴いている。何度も言うが、どれだけへぼかろうが、曲を作りさえすればパーソナリティはその作品に宿る。宿るのであるが、それと同時に、クオリティの低い作品というのは、往々にして、実に凡庸なのである。パーソナリティが発現していることと、クオリティが低いせいで凡庸になってしまっていることは両立するのだ。
すごさの方向性は、実に多岐に及んでいる。一方で、おもしろいことに、へぼい曲というのは、そのほとんどが、類型化された、同質化したダメさを持っている。
リズムの知識がない人間が打ち込んだリズム、キーの概念がわからず、トーナルセンターの感覚がない人間が打ち込んだメロディ、楽理の知識がない人間が打ち込んだ和音、キックの小さすぎるクラブミュージック、抑揚のない展開。まあなんでもよいのであるが、ダメな曲というのは、大抵耳馴染みのあるダメさをしている。
C4P作文の執筆において多分に参考にしている谷美奈著『「書く」ことによる学生の自己形成 ──文章表現「パーソナル・ライティング」の実践を通して』(東信堂、2021年)にて、パーソナルライティングについての記述がある。アカデミックライティングと対になる概念として、個人が主観で個人的なことを自由に書くことを指す言葉であるが、ライティングの経験が希薄な個人に、パーソナルな内容の文章を書かせると、好きな人に振られたとか、家庭環境がやばすぎるとか、極めて個人的なテーマの文章を書いているにも関わらず、はたから見るとありふれた、凡庸な文章になってしまうという記述がある。私的な内容を、私的に書いているはずなのに、ありふれたつまらないものが出来上がってしまうことへの課題意識が述べられている。
凡庸な曲にパーソナリティが宿っていないかというと、そんなことはない。宿っている。ただし、技術の不足が凡庸さを生み、凡庸さがパーソナリティを埋めている。
なぜ凡庸さが同質化するかというと、技術がない状態では選択肢が狭いからだ。使えるコードが少なければ、似たような進行になる。リズムの引き出しが少なければ、似たようなパターンになる。選択肢が少ない人間同士は、似たような選択をするしかなく、結果として似たようなものが出来上がる。逆に、すごい曲が多様であるのは、技術によって選択肢が増え、そこから何を選ぶかに個人差が出るからだ。「できない」だけでなく、「思いつかない/聴き分けられない」せいでもあるが、このボトルネックとなるものも技術不足による制約と言ってしまってよいだろう。技術がつくと、選択肢が増える。選択肢が増えると、何を選ぶかにパーソナリティが反映される余地が広がる。前章で述べた技術の層の範囲は、そのままあなたの選択肢となる。それに加え市場クオリティの層が存在し、エジプト料理屋が売れにくいように、それを指標として追い始めると、探索範囲が狭まる傾向にある。
パーソナリティ自体は最初からあるのだが、選択肢が少ない状態では、それが出力に現れる経路が限られている。選択肢を狭めるのは、技術不足と市場の影響である。技術の向上とは、パーソナリティの出力経路を増やすことだと言ってもいい。その上で、市場にアジャストするかどうかはあなた次第である。ここでいう「凡庸を脱する」とは、市場で勝つためではなく、自分をよりくっきり見るためだ。
ここで、ひとつはっきりさせておきたいことがある。自分がパーソナリティの話をしているのは「クオリティが低くても大丈夫だよ、パーソナリティがあるからね」とへぼい人への慰めとしてではない。C4Pの本旨はそこにはない。クオリティが高かろうが低かろうが、パーソナリティの取り出しは独立した価値を持っているということが言いたいのであって、へぼくても堂々として、お天道様の下を歩くべきであると伝えたいだけである。クオリティの低さをパーソナリティで補填しようという話では断じてない。
技術(実現精度)が上がるほど、パーソナリティはより鮮明に取り出せるようになる。さらに、作品数が蓄積するほど、その輪郭は安定する。前章で書いた意図の実現精度の話と同じで、技術の層を鍛えることはC4P的にも得なのだ。だからクオリティは上げた方がいい。へぼくてもいいとは言った。でも慰めはしない。する必要がないからである。

