The Blue Envelope #40
#C4P_demo
あいつ、音楽やりそう
音楽をやるのは、基本的に音楽をやりそうなやつである。そして、そういうやつのほうが残りやすい。親がミュージシャンだったり、家が裕福だったり、近所に楽器屋があったり。そういう環境が揃った人間は音楽を始めやすい。当人にとっては悪いことは一つもない。全て、音楽をやる上でポジティブに作用する。結果として、”音楽をやってる人”像の分布は偏る。
資本的なことだけで考えても、平民の可処分所得は減る一方なので、実家が太い人は、そうではない人と比べて、それだけで単純に、とても創作活動を続けやすくなる。首都圏とその他の文化資本格差みたいなものもしばしば話題になるが、親が音楽に興味がなく、近所にライブハウスも、クラブも、楽器屋も、スタジオもない街に生まれた人間が音楽を始めづらいのは現代も変わらない。コンピュータの普及によって人類総クリエイター時代がやってくる!みたいな極論もあるが、実際は根本的になにかが変わる様子はなく、一極集中的な意味ではなんなら状況は悪化しているように思える。
ここで、テクノロジーによって創作のハードルが下がる、みたいなIT民主化話の一番アツい部分というのは、単純なプレイヤー人口の増加というよりも、「音楽をやらなさそうだったやつが音楽をする可能性が増す」ないしは”音楽やりそうなやつ”の範囲が拡大するところにあると考えている。自分は、芸術の可能性を、この「今までやらなさそうだったやつがやるようになる」部分に見出している。従来の生存者バイアスから漏れた、かつての価値観では音楽に適性がなさそうであった層がそれに取り組むことが、何よりも手っ取り早く音楽を面白くできると思っているのだ。
この、従来の生存者バイアスから漏れたやつというのは、つまるところ、C4Qの勝負において不利な側である。幼少期の音楽的な訓練を経ていないとか、狭小アパート暮らしで楽器に触れる機会がないとか、リソースの不足がもたらすのは基本的には不利益である。ここでいう不利益というのは、基本的にクオリティの話になる。3歳の時からバイオリンを触っていた人間と、30歳でiPhone越しに初めてピアノロールに相対する人間の楽理のリテラシーには雲泥の差があるだろう。しかしながら、そのクオリティにおける不利益を棚に上げると、いままで音楽をやりそうもなかった層が、スマホとかパソコンのソフトで曲を作るほうが、未開拓な領域が広がるのではないかと思ってしまうのだ。
自分の音楽のおもしろさを考えた時に、本来だったら音楽をやっていなかったはずの人間が、何かの間違いでそれをやり続けてしまっている、という部分が非常に大きいと考えている。クラシックの音楽エリートが、全てを投げ打って10年間ピッチアップしたボーカルサンプルをチョップし続ける奇行に走る可能性はほぼゼロに等しい。音楽をやらなさそうな人間が本気で音楽に取り組むことは、クオリティという点にのみ目を瞑ると、資本的な意味ではなく、新規な選択パターンの供給という点で、手付かずの金脈に向かう行為と言って良い。
専業主婦が家事の合間にホットヨガに通う、なんていうのはよく聞く話である。が、その合間に打ち込みでテクノを作っても良いわけである。テクノ主婦もこの世に存在はしているだろうが、ホットヨガ人口にはダブルスコアで負けるだろう。おじいさんが盆栽の代わりにサンプラーでビートを作っても良い。八百屋のおっさんが開店前にサイン波を変調させてエレクトロニカを作ってもいいだろう。とにかく、今当たり前でないパターンを当たり前にしないといけない。
逆に実家が太く、文化資本が豊富な背景で育ったミュージシャンがルサンチマン的な観点で叩かれるなんてこともよくあるが、これも間違っている。音楽をやりそうな人間であればあるほど、選択パターンの観点ではレッドオーシャンと言えるからだ。絶対的なクオリティ比較では有利であるが、音楽の歴史においての選択パターンで考えると、将棋で言うところの矢倉の展開のような、多方面に十分に研究し尽くされた手順みたいなものである。ようするに、みんな大変で、どの立場も妬みの対象にはなり得ないのだ。
とにかく、自分が音楽をしなさそうなやつであるという自覚がある人間ほど、音楽を始めることで、ステレオタイプな音楽やってるやつ像を破壊して、世の中をよくするチャンスがあるということだ。音楽やらなさそうなやつが音楽を始めれば始めるほど、音楽は勝てるやつだけの遊びじゃなくなるのだ。クオリティの序列より、選択の差異が面白いという空気を世に吹き込むのは、”らしくない”側のやつの仕事である。
も変わらない。コンピュータの普及によって人類総クリエイター時代がやってくる!みたいな極論もあるが、実際は根本的になにかが変わる様子はなく、一極集中的な意味ではなんなら状況は悪化しているように思える。
ここで、テクノロジーによって創作のハードルが下がる、みたいなIT民主化話の一番アツい部分というのは、単純なプレイヤー人口の増加というよりも、「音楽をやらなさそうだったやつが音楽をする可能性が増す」ないしは”音楽やりそうなやつ”の範囲が拡大するところにあると考えている。自分は、芸術の可能性を、この「今までやらなさそうだったやつがやるようになる」部分に見出している。従来の生存者バイアスから漏れた、かつての価値観では音楽に適性がなさそうであった層がそれに取り組むことが、何よりも手っ取り早く音楽を面白くできると思っているのだ。
この、従来の生存者バイアスから漏れたやつというのは、つまるところ、C4Qの勝負において不利な側である。幼少期の音楽的な訓練を経ていないとか、狭小アパート暮らしで楽器に触れる機会がないとか、リソースの不足がもたらすのは基本的には不利益である。ここでいう不利益というのは、基本的にクオリティの話になる。3歳の時からバイオリンを触っていた人間と、30歳でiPhone越しに初めてピアノロールに相対する人間の楽理のリテラシーには雲泥の差があるだろう。しかしながら、そのクオリティにおける不利益を棚に上げると、いままで音楽をやりそうもなかった層が、スマホとかパソコンのソフトで曲を作るほうが、未開拓な領域が広がるのではないかと思ってしまうのだ。
自分の音楽のおもしろさを考えた時に、本来だったら音楽をやっていなかったはずの人間が、何かの間違いでそれをやり続けてしまっている、という部分が非常に大きいと考えている。クラシックの音楽エリートが、全てを投げ打って10年間ピッチアップしたボーカルサンプルをチョップし続ける奇行に走る可能性はほぼゼロに等しい。音楽をやらなさそうな人間が本気で音楽に取り組むことは、クオリティという点にのみ目を瞑ると、資本的な意味ではなく、新規な選択パターンの供給という点で、手付かずの金脈に向かう行為と言って良い。
専業主婦が家事の合間にホットヨガに通う、なんていうのはよく聞く話である。が、その合間に打ち込みでテクノを作っても良いわけである。テクノ主婦もこの世に存在はしているだろうが、ホットヨガ人口にはダブルスコアで負けるだろう。おじいさんが盆栽の代わりにサンプラーでビートを作っても良い。八百屋のおっさんが開店前にサイン波を変調させてエレクトロニカを作ってもいいだろう。とにかく、今当たり前でないパターンを当たり前にしないといけない。
逆に実家が太く、文化資本が豊富な背景で育ったミュージシャンがルサンチマン的な観点で叩かれるなんてこともよくあるが、これも間違っている。音楽をやりそうな人間であればあるほど、選択パターンの観点ではレッドオーシャンと言えるからだ。絶対的なクオリティ比較では有利であるが、音楽の歴史においての選択パターンで考えると、将棋で言うところの矢倉の展開のような、多方面に十分に研究し尽くされた手順みたいなものである。ようするに、みんな大変で、どの立場も妬みの対象にはなり得ないのだ。
とにかく、自分が音楽をしなさそうなやつであるという自覚がある人間ほど、音楽を始めることで、ステレオタイプな音楽やってるやつ像を破壊して、世の中をよくするチャンスがあるということだ。音楽やらなさそうなやつが音楽を始めれば始めるほど、音楽は勝てるやつだけの遊びじゃなくなるのだ。クオリティの序列より、選択の差異が面白いという空気を世に吹き込むのは、”らしくない”側のやつの仕事である。

