#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
おわってほしい、早く
自分のかなり説明が難しい気質の一つに、「時間依存のコンテンツを見ている時、早くおわんねーかなと常にうっすら思ってしまう」というものがある。
例えば、好きなバンドのライブを観ているときも、楽しみにしていくし、もちろん興味もあるから、観ていて嬉しいわけであるが、ここでなぜか、早くおわんねーかな、という気持ちがずっと頭の片隅にあるのである。
この感覚がどれくらい一般的なものなのかよくわからないが、ガキの頃からずっとそうなので、割と根っからのものなのである。小学校の頃、ポケモン映画の傑作、ミュウツーの逆襲を観た時も、心からワクワクしたし、感動したが、それと同時に、わりと序盤の時点で、いつ終わるんだろうな、と考え始めてしまったことをよく覚えている。コンテンツの質や興味の寡多に特に依存せず、稀代の名作から、校長先生の中身のないお話みたいな根本的に退屈なものまで、特に分け隔てなく、割と常に起こる。
誤解を招かないようにいうと、これはムカつくから、不快だから、やめてくれといったネガティブな類のものではないということである。以上でも以下でもなく、早くおわんねーかなーとぼんやり思うのみである。早くおわんねーかな、というよりは、いつおわんんだろうなーこれ、の方がニュアンスとして近いかもしれない。是非はともかくとして、そうなのだから仕方がない。
そして、この気質がコンテンツの好みに大きく影響してしまっている。拘束度が高いものが苦手なのだ。
ここでいう拘束度は、どれくらい身体的に行動を制限され、五感がどの程度動員されるかで決まる。細かいことを無視すると、本を読むときは目しか使わないし、ヨガのレッスンに参加するならば、インストラクターの指示に目と耳を傾け、身体動作を指定される。ピアノのリサイタルであれば、メインは耳を使う。目を瞑って鑑賞する人もいるだろう。演劇ではそうもいかず、目も耳も閉じるわけにはいかない。そんな感じで、コンテンツの形態によって、鑑賞者のリソースの提供をどれくらい要求するかはまちまちであるのだ。
映画なんかはわりと拘束度が高いコンテンツの代表である。目と耳がロックされ、自宅ならともかく、映画館であるならば、許されるのはポップコーンを食う程度の動作のみで、椅子に座っておとなしくしている必要がある。暴れながら鑑賞することは社会的によく思われないだろうし、ぼーっとして、3分間うわの空であったとしたら、新規で登場した人物が誰なのかわからなくなったり、映画の根幹に関わるような要素を見逃したり、意図された通りにプロットを追えなかったりするわけである。2時間の映画のたった3分、割合にして2.5%を捨てただけで鑑賞体験がかなり台無しになるのだ。一方、音楽、録音物の視聴はえてして拘束がマイルドである。スピーカーであれ、イヤホンであれ、奪われるのは耳だけであり、外を散歩しようが、火を使って料理をしようが、100kgのバーベルを用いて筋トレをしようが、特に問題はない。飲食店のBGMなど、集中しないでよい、という社会的な合意が暗に取れているものも多い。100円ショップで流れる謎のテーマソングに対して、ちゃんと聴かないと失礼だろう、と怒り出す人はいない。対して、学校の授業のような明確に対人のものなど、リアルタイムでコンテンツの提供者と受け手が対面するフォーマットのものは、少なくとも一般社会の常識で失礼にならない程度の礼節が求められる。
さらに、時間依存のコンテンツで考えると、勝手にシーケンスが進んでいくかどうか、という観点もある。全く理解できない数学の授業も、机に突っ伏して寝ていたら勝手に終わる。他方、推理小説がそこに置いてあったとしても、読み進めない限り、どんな事件が起こり、犯人は誰なのかはわからない。時間芸術を抽象化すると、時間軸に対して意図的に出来事が配置されている、ということになるが、その時間軸の進めるタイミングや速さが、オートマチックに定められていたり、マニュアルで決められたりするのである。
自分の早くおわんねーかなマインドの正体は、望む拘束度や負荷に対してのミスマッチで起こっているのだというのが暫定的結論である。望むちょうどいい負荷があり、適当な拘束を求めている。ここで、自分の好みを言うのであれば、身体的な拘束度が低く、五感を総合的に動員もされず、勝手に始まって、勝手に終わってくれるものがよい。要するに単純にわがままで、実に幼い。
上記全てを充足する素敵コンテンツが音楽であったというのが、自分が音楽が好きである大きな理由であるのだ。恐ろしいことに、C4Pの装置として自分が音楽を選択したのは、表現様式そのものというより、メディアとしての形態が向いていたからというだけという、なにか本質とはズレたものかもしれないのだ。
文化的な好みもそうである。開演時間が明確に定められ、セットリストがあり、終了まで全力で鑑賞するというライブの作法より、なんとなくやっているイベントに途中から行って、飽きたら途中で帰る、といったクラブマナーの方が向いていたというだけの話なのだ。自分にとっては、音楽性の趣味嗜好よりも、作法の差の方が影響が大きい気がしている。ギターが好きなのにバンドシーンに属さず、電子音楽をやっている、というのは、表現上の要請があり、エレクトリックな手段でしか実現できないものが必須だったわけではなく、ただ、この「早くおわんねーかな」的なわがままにからきている可能性が高い。(もちろん対人コミュニティでこんな態度は現実的ではないが)好きな時間に現れて、適当に生演奏をやって、誰も集中して聴いておらず、飽きたら帰っていいみたいなコミュニティが手近にあれば、DJなんかやっていなかった可能性がある。こう考えると、信念薄弱な気もする。
でもそれでいいのである。パーソナリティが取り出せればなんでもいい。たまたま音楽がちょうどよかっただけで、都合がよかったから、それでいくと決めたのである。自分の情けない気質に人生の選択を引っ張られている。でも決めたからには、がんばろう、そんな感じです。