The Blue Envelope #35
#C4P_demo
完成宣言
アホみたいなことを言うが、創作物を発表するには、完成させないといけない。では「完成させる」とはどういうことか。この問題について考えてみる。クライアントワークの類であれば答えは簡単である。頼んだ側がこれでOKといえば完成である。一方で、自主制作における完成の定義は難しい。結論から言うと、自主制作における完成とは手離すことである。なんでこんなことを書くかというと、完成させるという行為は、その難易度の高さの割にナメられているフシがあるからである。
一つの考え方は、「これ以上手を加えても良くならない状態」を完成とするものである。改善の余地がない。最善を尽くした。だから完成。非常にわかりやすい。しかし、この定義には問題がある。改善の余地は常にあるからだ。知識も、技術も、経験も、人には常にのびしろがある。時間が許せば試行回数も増やせるであろう。そう言った意味で、「これ以上手を加えても良くならない状態」というのは砂上の楼閣である。まだよくなる可能性がゼロでないことは証明不可能である。ありえるのは、「これ以上手を加えても良くならない状態になったような気分」だけである。
にもかかわらず、当たり前だが、基本的には「これ以上手を加えても良くならない状態」を目指す。目指すが、そうはならないのだ。これが、不慣れな人間からすると理解しがたいように思う。究極的には永久にやりようがあるのに、どこかで完成しました、と言わなければならない。
構造上、実は頼まれて作るよりも、自主制作の方が本質的には完成が困難なのである。へぼいやつは頼まれない。頼まれないということは自主的にやるほかなく、それは完成の難易度が高い方のモードで遊ぶということである。このせいで、だいたいのへぼがへぼのまま完成の経験を積むことができない。アマチュアは技術以上に、この完成の経験をいかに積むかが難しく、非常に重要になってくる。
実際のところ、自主制作においては「手離した時点」が完成である。手段はなんでもいい。ネットに公開する、紙に印刷する、人に渡す、金庫に放り込む、丸めて飲み込んでしまう。手段は問わないが、これ以上やらないと決められれば、それが完成である。
C4P的な創作においては、主観的な判断で完成を決められる。逆にいうと、主観的に振る舞わないと、一生完成しないといってよい。「完成!」と言えば完成である。それだけのことなのに、この作品を「手離す」行為は相当難しい。そして、その難しさが語られる機会はあまりにも少ない。
「手離す」という行為をもう少し具体的に説明すると、もうこれ以上作業しないと決めることである。単純そうだが、人間の意思で成し遂げるのは非常に難しい。前述の通り、作品が今よりよくなる可能性は永久にゼロにならないからだ。まだよくなるかもしれない、という未練を断ち切るのは大変なのだ。なので、一般的には、そうなるようなシステムに頼ることになる。
手離しシステムとして最も古典的で分かりやすいのは、物理メディアを用いることである。曲を作りました、というだけだと無限に修正したい欲が湧いてくるのが人間である。ここで、原盤を作り、プレスして、レコードにして、流通させてしまったらどうだろう。後日気が変わったとして、それを全て回収して修正することは不可能である。印刷して本にする、皿に盛って料理にする、なんでもよいが、物理メディアに落とし込んで、文字通り「手離す」のは良い方法であり、広く実施されている。
次にわかりやすいのは、他人を活用することである。人を呼び出し、かしこまって、愛を告白したとする。後日、やっぱなしで、というわけにはいかない。人にひどい言葉を言ってしまったとして、取り消しを願ったとしても、言われたほうからするとその事実を無かったことにすることはできない。そんな感じで、口頭でなにかを言うにしても、相手がいれば、否応にして、伝達した概念は自分の手から離れることになる。創作物もそうで、他人に見せた途端、完全ではないにせよ、自分の手から離れることになる。
物理メディアの方は手間も金もかかる場合が多いので、初心者には後者を推奨している。これが、曲を人に聴かせろ、とかねがね言っている真意でもある。作品から手を離すこと、すなわち完成を宣言することを推奨しているのだ。
何かを作ろうとして、やりかけで放置したものがあったとして、いつかやろうと保留している状態であれば未完成である。逆に、もうやらないと決めたのであれば、その作品は完成したと言ってしまった方が良い。こんな調子なので、世間的な完成のイメージとは少しズレるかもしれない。しかし、C4P的な価値観においてはそれが完成である。パーソナリティを発現させたい。そのためには完成に体を慣らす必要がある。
パーソナリティは、作品の完成度とは独立に発現する。完成した作品にも、未完成の作品にも、パーソナリティは宿る。むしろ、未完成の状態の方が、パーソナリティが生々しく出ていることもある。しかしながら、まだそれの行く末をコントロールできる状態のまま、未完成の自分の作品を、客観的に解釈するのは相当困難である。
作りかけの状態には、その時点での選択が記録されている。「ここまでは決めたが、ここから先は決めていない」という境界がある。決めるためには、主観的である必要がある。境界の先、つまり保留している部分が、自己の客観視、および相対化を邪魔するのだ。
世間的な意味での完成にこだわりすぎるのはよくない。「完成させなければ意味がない」という考えは捨てた方がいいが、手離す訓練はすべきである。手離しの訓練として、一番手っ取り早いのが人に鑑賞してもらうことである。作りかけでも見せていい。それ自体がパーソナリティの記録である。作品から手を離し、相対化することで、パーソナリティと出会うことができる。
手離すのは、クオリティの面でも有用である。「未完成である」ことを言い訳に使う癖がつくとよくない。本当は完成させたいのに、完成させる力がないだけの状態を「未完成なので」という、これは言い訳である。完成を目指す利点は、完成させるのに努力が必要であるからである。パーソナリティに必要なのは完成の宣言のみであるが、高クオリティの達成にはそうもいかない。よさを決め、そこを目指さなければいけない。そして、その努力の過程もパーソナリティの発現である。完成にこぎ着けるたびに、C4P/C4Qの両面に良い影響がある。
努力によって可能な限りクオリティを高めて、手離すことでパーソナリティと出会う。そのための補助として、物理メディアや他人を活用することができる。手離すことさえできれば、世間への公開は必須ではない。他者の目を意識せず、自分だけのために作り、自ら鑑賞することで、純粋に自分のパーソナリティだけに向き合うことも可能である。が、そう簡単ではないので、こだわりがないなら、作品は公開した方がよい。
近年ではデジタルメディアでの創作物の公開が当たり前になっており、手離しの難易度は日々変化している。まず物理メディアよりは手間が少ない。これはメリットである。次に、一般的な作品の削除、取り下げ、修正が容易になっている。その時点の版を一度世に置いた事実は残るが、物理メディアに比べると手離れ度は下がる。これは完成という点ではデメリットであろう。一方で、物理的な制約を受けづらく、見られる可能性のある人数の規模は青天井である。これはよくもあるし、リスクもある。ともあれ、時代の変化に文句を言っても仕方がない。我々がすべきことは1つ、とにかく、完成を宣言し、作品を手離すことであるのだ。
あらゆる人に「曲を人に聴かせろ」と繰り返してきた。それは、多くの人が公開と、それに伴う他者からの評価を過度に恐れているからであるが、それだけでなく、多くのケースで、その前段階である完成をも恐れているのだ。高クオリティの完成は努力の積み重ねによって達成される。パーソナリティのための完成は、その宣言によってのみ達成される。よい創作者の条件の一つは、完成を宣言できることだ。ということで、この原稿は、これにて完成です。

