The Blue Envelope #30
阪神ファン
#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
阪神ファン
自分は実家が兵庫県の西宮市にある。土地柄、近所に阪神タイガースの選手や関係者がたくさん住んでいて、特にオフシーズンなどは、野球中継で見られるような面々を近所で見かける機会も多い。甲子園にもすぐいけるので、街には阪神ファンがたくさんいる。むしろ、普通にしていたら、阪神を応援することになるくらいのムードすらある。
そんな街に、中学1年生のときに越してきた。思春期真っ只中である。転勤族の家庭、出身は千葉、東京を経て、物心ついてから、岡山、横浜、からの初の関西である。最初はどうしても標準語のイントネーションが抜けなかったりで、土地の空気を把握するにはなかなかな時間がかかったわけである。
こんな背景が理由で、街レベルでの生え抜き感のなさみたいなものを気にしてしまって、自分は阪神を応援することができなかった。アンチとかではなく、なんとなく、応援する要件を満たしていない気がしていただけである。逆にこんな阪神色の強い地域に住んでいるにも関わらず、阪神以外を応援するのもそれはそれで気が乗らず、プロ野球は見ていたが、特に贔屓のチームなどを設定することができなかったという経緯がある。
プロスポーツの応援において、贔屓のチームを設定し、観戦することは一般的である。なんでそんなことをするかというと、そうでもしないと、楽しみにくいと言えるからである。
ポストシーズンを除くと、プロ野球の公式戦は年間858回実施される。よほどのマニアでない限り、全てを網羅することはできない。そもそも同日開催の試合がありすぎるし、3時間前後かかる試合をそんな数観ていられない。どこのチームが勝った負けた、どの選手の成績がどうだ、みたいな話をするにも、何を軸にみたらいいか決めるには、いささか規模がデカすぎる。もちろん贔屓のチームなしに楽しめる人ももちろんいるが、それはもう優れた才能と言って良い。
ここで、応援するチームを決めることで、さまざまな単純化が可能になる。まず、858試合が、阪神の試合と、それ以外に分けられる。全試合のうち、阪神戦は17%程度しかないので、そこにフォーカスすればよく、興味の対象が現実的な物量になる。残りの8割ちょいはなんとなく把握しておけば良い。さらに、勝敗に対してのリアクションを自動的に決定できる。阪神ファンは、阪神が勝ったら喜び、負けたら悔しがれば良い。大規模な、複雑であったはずのものが、贔屓のチームを決める、という単純なプロセスによって、ちょうどよく単純な娯楽になるのだ。逆にそうでもしないと、普通の人にとってスポーツとはそもそも楽しみにくいものであると言ってもよいかもしれない。
この、阪神ファンであるという行為を、人生を楽しむコツと捉えることもできる。阪神タイガースの優勝を楽しめる人間は、阪神ファンであったものだけである。12球団どこかのファンになっておけば、優勝した時に喜ぶチャンスが与えられる。贔屓の要素を増やせば増やすほど、人生の楽しみは増えていく。
推し活なんてものはその最たる例で、コンテンツ過多の現代において、推しを定めるという簡単な手続きを持ってして、見るべきコンテンツが、取るべきリアクションが、そして週末の予定までもが決まっていく。選ぶことはいつだって難しい。先に選んでしまうことで、トータルの選ぶ手間をなくし、行動の決定をクリアにするのだ。自分だってそうである。C4Pをテーマに暮らすと決めたので、関連しそうな書籍だけを読み、役に立ちそうなコンテンツばかりみている。楽な話である。
ここで、恐ろしいことがある。クリアになるのは行動の決定だけで、物事への理解がそうなるわけではないのだ。熱心な阪神ファンであることは、野球への深い理解があることを意味しない。
この手の単純化の弊害が、至る所で出まくっている。自分の陣営を決め、勝ったら嬉しい、負けたら悔しい、みたいなことを単純にしてはいけないことで世の中は溢れている。右左のイデオロギーをはじめとする政治的なスタンスを阪神vs巨人みたいなレベル感で捉えた結果、ネトウヨは死ね、パヨクは消えろ、みたいなカスの論戦が始まるし、日本人だから日本推し、外国人は出ていけ、みたいなトンデモロジックが飛び出すわけである。特にこの贔屓決定のプロセスは、折衷をしたり、妥協案を探ったりするような過程とすこぶる相性が悪い。勝ち負けのないものに贔屓のチームを設定するようなことをすると、政治をトロッコ問題の死人選びみたいに捉えたり、直球の差別をする羽目になる。
じゃあ良い野球ファンであるためには858試合みないといけないのか、というとそういうわけではない。人間は有限で、時間も集中力も処理能力も足りていないので、単純化が必要な局面もある。ただ“敵味方ゲーム化”を、無邪気にあらゆるものに適応するのがよくないという話である。
まず、贔屓を設定し、勝ち負けに一喜一憂するのは、ルールに則って客観的に勝敗が定められたゲームやスポーツに限ることである。それ以外のものには、慎重になりすぎるくらいがちょうどいい。そして、自分にできる範囲で、複雑さに挑めば良い。扱える複雑さの範囲を、少しずつ拡張する必要がある。それが知性であり、教養である。
阪神かそれ以外か、だけだとどうしてもアナーキーになって行きがちである。。たとえば「今日は誰が良かったか」「どんな配球が機能したか」「この選手はどう育っているか」みたいな軸を足すと、勝ち負けの単純さを残したまま、視界の解像度だけ上げられる。そしてそれは、大体の野球ファンがやっていることである。単純化したものを再び複雑なものにものしていくのは、実にクリエイティブな態度である。単純化自体は良い。それを複雑に戻す、可逆ルートを残しておくことが大切である。もっと身も蓋もないことを言うと、たまには巨人のことをポジティブに考えてあげるだけで良い。
誰にも迷惑をかけずに、複雑なものを複雑なまま理解するトレーニングとして、創作活動を勧める。複雑なのは他ならない自分自身である。なにかに挑戦し、それが自分に向いているのか、向いていないのか、楽しかったのか、つまらなかったのか、何を感じたのか、一つづつ丁寧に考える。勝ち負けから遠く離れた、一見無駄な営為の繰り返しによって、自身の複雑さが明らかになる。自身の複雑さの一端に触れることができれば、おのずと他人もまたそうであると理解できる。
阪神ファンである、推し活をする、というのは、時には有益な単純化であるが、天秤の片方にしか錘が乗せられていない状態である。別項でも述べたが、創作的行為というのは、複雑さに挑むことに他ならない。バランスを取るためには、創作的に生きる必要があるのだ。

