The Blue Envelope #27
#C4P_demo
不運な人
C4Qを志向する、すなわちクオリティが高い状態を目指すということは、それを直接的に目指すかどうかはさておき、客観的に認められるような成果を上げることを目指す態度と言い換えてもよい。
ここで、かなり極端な話をすると、なにかしらのルールや尺度を導入し、優劣を論じるという行為は、基本的に、運良く”優”側に、すなわち中央値よりも上側に入れた人間を利する仕組みでしかないとも言えてしまう。
例を出すまでもないが、学歴主義は学歴が高いやつが得をするルールである。学歴主義を持ち出すメリットがあるのは、学歴が平均よりも高いやつか、学歴の競争に参加し、上に行こうと思っているやつだけである。いきすぎたルッキズムは、なんらかの美醜の基準を設けて、醜側からなるべく離れ、美側に行くことを目指す。もうすでに優れた側にいる自負があるか、いまからそうなる算段があるかのいずれかの場合以外は、こういった話題を持ち出す意味はほぼない。
ややこしいことに、なまじ定量性があるせいで、この学歴みたいな類のバロメーターは、安易に個人の努力に帰属される傾向にある。だからこそ、元々上にいるやつや、階段をわざわざ登ることに成功した人間が、わざわざ下を見て、努力不足を笑うという構造が発生しがちである。実際はそうとは限らないにもかかわらずだ。
バスケットボールにおいては、基本的な傾向として、背が高い方が有利である。150cmの選手よりも190cmの選手のほうが得をする機会は多い。確率的にはどちらも平均から外れている。確率分布の±3σよりも外にいるというだけにすぎず、現象そのものにはたいした差はないが、ゴールが高い位置にあるという性質上、そこに有利不利が発生する。身長というパラメーターは、ドリブル、シュート、パスのスキルと比べると、努力の介入余地は明らかに少ない。
人間のあらゆる性質において平均があり、そして、すべてが平均的な人間というのは存在せず、みな平均から外れている。別の方向で平均から外れている確率的に等価な2つの顔面があり、恣意的な尺度を導入することでそれぞれがブサイク、美人と言われる。世の中にはあらゆる基準が作為を持って導入されている。ここで考えなければいけないのは、たまたま優劣の劣側に自分が含まれたときにどういう態度を取るかである。
音楽活動をする上で、東京23区内生まれの人間と、公共交通機関もろくに通ってないクソ田舎出身の人間がいたとして、そりゃあ後者の方が、インプットする上でもアウトプットする上でも損することのほうが多いであろう。1時間かけても最寄駅にも辿り着けないやつと、いつでも両手で数え切れないほどの文化施設にアクセスできるやつの機会の絶対数を考えると、損得の話をわざわざするのもアホらしいというものである。
ここで、損側で養ったハングリー精神で叩き上げや、となるのも、ルサンチマンを拗らせて恵まれたものに石を投げるのも、C4Qイデオロギーの発露という意味ではそこまでの差はないということである。叩き上げに成功し、温室育ちに中指を立て、ざまあみあがれ、となるのは痛快であろうが、これも、運良く上側にいけたやつが利益を享受できる、なんらかの尺度が運用されているだけである。下から石を投げるにしても、その下という立場は、勝手に導入したなんらかの尺度にすぎない。
尺度の導入と、それによる優劣の存在から我々は完全に逃れることはできない。が、マシにするヒントとしてパーソナリティの存在がある。ここだけが運に作用されず、全ての人間に平等である。優劣以前に、存在するだけだからである。
世の中の主要な尺度の大半で劣後しなかった幸運な人や、特定の尺度で顕著な成績を残せるような優秀な人は、C4Qの運用だけで特に困ることはないだろう。一方、そうではないポンコツどもにとってはC4P的なスタンスは大きな支えになる。「お前にこの気持ちがわかるのか!」と思った時、その気持ちだけに意味があるのだ。
もちろん、こんな綺麗事で大きな社会問題が解決したり、大きな苦しみをもつ人間が救われるとも思っていない。が、インターネットで散見されるカスの喧嘩の無意味さを理解し、心を惑わされないくらいには機能する。
みなの身に、明日どんな楽しいことや悲しいことが起こるかもわからない。人生何が起こったとて、パーソナリティが発現し、そしてその度にちょっと変容するだけの話である。

