The Blue Envelope #26
#C4P_demo
#楽しみ力
人に何かを勧めるときというのは、それのなにがよいかを伝えるのが筋であろう。例えば飯屋を人にオススメするときは、なにがうまかったのか、店の雰囲気がどうよかったのか、などを説明することになる。自分はこのテキストを通して、みんな音楽(ないしはその他の、ある程度抽象的な創作物)を作ろうと言っているので、それのなにがよいかを伝えようと善処しなければならないわけであるが、別項で述べたように、それがスポーツであれ、音楽であれ、勉強であれ、なにがよいかの説明はいつだって曖昧なのである。しかも、仮にそのいいところをうまく説明できたとしても、もう一つやっかいな問いが残るのだ。いつ、どの段階になったら楽しくなるのか?
やりはじめた瞬間に、例外なく、全員が楽しいと思うようなものは普及に苦労しない。敬遠している人がいるということは、そうではないということだ。楽しさもよくわからないし、いつ楽しくなるかもわからない、けどやってみてください。なんて無責任な!
まず、この「いつ楽しくなるのか」という問いは、その人が最初からどれくらい能動的にその行為を選び取っているかによって、大きく様相が変わってくる。そもそも、親などの環境要因で無理やりやらされた場合を除き、単純に、ギター教室にやってくる人間はギターに興味があるから来るし、サッカーチームに入る子供はサッカーがやりたくてくる。こんなケースは、もうすでに能動的な姿勢が多少はあるわけだから、やりたいという希望が叶っているという意味で、ある程度は楽しいだろう。逆にいうと、自ら門を叩かない者に働きかけるような仕組みはあまりない。自炊や洗濯などと異なり、エッセンシャルな営みとして捉えられていないため、やる気があるやつだけ、やりたい人だけやればいい、みたいなふうに考えている人も多いであろう。
一方で、自分のように、元々苦手意識があり、たいして好きでもなかったものがライフワークになる場合がある。最初はおもろいと思えない人の、そのおもんなさの先に、とんでもないジューシーフルーツが存在しているかもしれないわけだ。そんな人がどれくらいいるのかよくわからないが、自分がそうであったから、人にもそれを体験させたい気持ちが強いのだ。
何事も最初がキツい。最初のハードルを越えられない。さらに、初期段階での得手不得手を、そのまま自分への向き不向きとしてしまう。パパがキャッチボールに連れていってくれる家庭で育ったやつは、最低限ボールを取ったり投げたりできるようになっているので、なんの球技をやろうがまあなんとかなりやすい。が、そもそも適性がなく、さらにそんな機会を与えられなかった人間が、中学で球技系の部活に入ると結構大変である。部活どころか体育も憂鬱であろう。音痴であるだけでカラオケなどに行きたくなくなるのでより歌う機会がなくなっていくし、音楽全体もうっすら嫌になったりする。中学の序盤、因数分解でつまづいた人間が、大人になってから突然脳がスパークして、突然数学を好きになって、ライフワークとする可能性はかなり低いだろう。要するに、大半は、入口の印象でその分野への興味が大体決まってしまうのだ。そういう意味で、全部を一通り無理矢理やらされる義務教育課程は価値があるとも言えるし、誤った印象を植え付けられる危険もある。
無理矢理やらされる過程で、因数分解の意味も、やる意義もわからない、という人にする正しい動機づけとはなんだろうか。正確なことを言おうと、数学科の人間がやってきて「これは多項式環における素因子分解の具体なんです。学習を進めればどんどん抽象化できますよ!」と言われても意味不明であるし、逆に、「複雑なものを分けて考えるトレーニングになって、人生に役立ちます!」みたいなそれっぽい一般論を言われてもそれはそれで困るわけである。運動が苦手な人は、体幹がすべての基本や!と体幹を鍛えるトレーニングばかりさせられても困るし、経験もないのに、とりあえず試合や!といきなり試合に出させられても失敗してトラウマになるかもしれない。厳密な説明は意味不明、簡略化した説明は要領を得ない。基礎鍛錬は意義がわからないし、応用から始めるとうまくできない。どう考えても楽しくない。なんてむずかしい!
いつかわかる日が来るから黙ってやっとけよ、というのはある程度真実であるが、あまりにそのタイムスパンが長すぎる。初めてのプログラミングで、「Hello World!」と出力したいだけなのに、コードのはじめに訳のわからない文字列をごちゃごちゃ書かないといけない。これは無視して進んでいいのか?理解しないといけないのか?ほんとうに、後になって理解することができるのか?大学一年生の時に微積分と線形代数を教わったが、恥ずかしながら、自分がそれらをツールとしてまともに運用できるようになったのは、20代半ばを過ぎてからである。
これは巨大な体系を端から学ぶ際に常に起こる問題である。これは分からんまま棚上げして進もう、ここは絶対に避けては進めない要素や、といった取捨選択の能力の有無は、そのまま汎用的な学習スキルの高低と言ってよい。木から森を見るには、木の調査と、森の概略把握どちらが欠けてもダメである。
ここまでは構造としてのむずかしさの話だったが、実際に人を遠ざけるもっと直接的な理由もある。最初は全員下手で、そして下手だとつまらないのだ。当たり前すぎるが、上手にできた方が楽しい。楽しいからやり、やるから上達する。富めるものは富み続ける。下手だからつまらない、つまらないからやめちゃって下手なまま。義務教育らへんの過程の頃の体験の記憶から、自分の向き不向きを決めたり、やるうえでのイメージを決めてしまっていて、挽回や再検討の機会がなさすぎる。学生時代にネガティヴな印象を持った分野や領域に、自分らしさに合致した素敵な何かがあるかもしれないのに。どうすりゃいいの?
全体の見通しも立っておらず、下手くそなものを継続する困難さ。これの解決は難しく、一般的な答えをここで提供することは到底できない。ここでは、個人的なソリューションを一つ書いておこう。それは、楽しそうな人を参考にして、楽しそうにやることである。
自分と同じくらい下手くそで、かつ楽しそうなやつ。あるいは、人の下手さを笑わない、楽しそうな指導者。このどちらかを発見できるとよい。リアルでもネットでも良い。直接関わりを持てても、持てなくてもよい。技術習得に鍛錬が必要なのと同じで、楽しみを見出すことも能力であるから、あるやつから学ぶべきである。楽しそうなやつを真似して、楽しもうとする。楽しければ大体解決する。
へぼい状態を揶揄しない、楽しそうなやつを探すのは、実は結構難しい。結構レアである。逆に、単純に熱心なやつを探すのは意外と簡単である。ここで、厄介なことに、熱心なことと、楽しそうなことは異なる。
子供が甲子園に出ることを願い、可処分時間を全て投じて野球の練習に付き合うパパは、熱心である。熱心だが、楽しそうかは怪しい場合が多い。世の中はこういう人で溢れている。その熱心さは、大体C4Q的な視座からきている。クオリティの向上に価値を見出している人間が、それを伝える努力を怠って、厳しい鍛錬をさせてしまう。される側は大抵楽しくない。それをやっていいのは、価値や楽しさを共有した上で、より高いレベルを目指すために、合意が取れている場合のみである。
下手くそを笑ったり、下手くそに厳しくしたり、という態度は、C4Qイデオロギーへの偏重の典型的な発露である。逆に、下手くそなのに楽しい、という状態が実現されていたとしたら、それはパーソナリティに触れられていると言ってよい。手段問わず、自身の楽しさに向き合うのはC4Pである。自身の楽しさを探索するには、楽しそうな人を参考にすることである。もう少し噛み砕くと、”上手さ”よりも”楽しそうさ”を手本にする、ということだ。
音を楽しむと書いて……音楽ですよ!といった話もあるが、それは本当にそうである。極めて楽しむのが上手く、それをストレートに表現するミュージシャンがたまにいる。そんなものがない人が、「そんな楽しいものに出会えていいですね」と不貞腐れる気持ちもわかるが、技術とは別の、それを楽しむ力の意図的な養成は、世間で思われているよりは能動的に行われる必要がある。楽しみギフテッドみたいなやつがいたら、くさすよりもその方法を学ぶほうが良い。
ものごとを楽しむノウハウが、自然体で身についた人は運がよかっただけである。大半はそうではないから、自分にとって楽しいことを探さないといけない。探すうえで、創作活動をしたり、それに触れたりすることは非常に役にたつ。なので、創作活動、ないしは創作物に楽しみを見出す訓練をして、それを楽しく続けられるようになることができれば、結果的に、あらゆるものを楽しむ素養となるのだ。
自身のパーソナリティへの解像度は、そのままそっくり人生に対しての楽しみ力となる。自分が楽しくなれそうなことを見つけること。それの楽しみ方を見つけること。ここまでできてようやく楽しい。楽しくするのも楽ではない。しかし、一度楽しくなることができれば、あとは楽しいだけである。
楽しみを見出す、ということは、それに期待をすることであるとも言えよう。未来の上手な自分の姿に期待をするのも良いが、てんで適性がなく、一生下手かもしれない。上達に期待をすると、その期待は裏切られる可能性がある。そんな中でも、楽しくなるためには、未来に期待しないといけない。期待先は、個人性の発見にすることを勧める。パーソナリティとは、この世で、全員に絶対に存在する、かなり計算できる遊び道具であるのだ。
自分にとって音楽は、最初から無条件に楽しいものではなかった。ごちゃごちゃ試行錯誤したら楽しくなって、あとは自動的に、ずっと楽しいだけである。自分のように、第一印象と適性が一致していない人が他にもいると思うので、そういう人のためにこれを書いている。

