The Blue Envelope #25
#C4P_demo
ちょうどよさ
この世には、とにかく多ければ、あるいは少なければいいという類のものと、それをちょうどよくしなければならないものがある。
資本主義における重要パラメータであるお金はわかりやすい。同じ仕事をするのなら、給料はなるべくいっぱいもらえるとうれしい。金がありすぎて起こる人間トラブルがないわけではないが、3万円か3億円、好きな方が貰えるとなったらそりゃ3億をもらうだろう。陸上競技において、100m11秒で走るより9秒で走るほうが優れている。年間ホームラン数は20本より50本のほうがよい。対戦ゲームの勝率は高いほうがいい。楽しいことは多いほうがいいし、病気で死ぬ人は少ないほうがいい。
ちょうどよくしなければいけないものもある。エアコンの設定温度を5度にされても40度にされても困る。5km/hしかでない車は遅すぎるが、1000km/hで走れても上手く操作できない。机はデカすぎると奥に手が届かないし、小さすぎると置きたいものが置けない。
この、とにかくマキシマイズ/ミニマイズすればいいものと、ちょうどよくしなければいけないものを考えたときに、前者は優劣が明確であるのでわかりやすいが、後者が重要であること、あるいはそれを苦手であることを自覚できていない人は多い。
例えば、お金持ちになりたい、という目標は資産というパラメータをマキシマイズすることで実現される。一方、おしゃれになりたい、という目標は、なにかを最大化することでは達成できない。それぞれ別の能力が必要であるので、金はたくさんあるが、おしゃれになることができない、といったことが発生する。
創作とは超複雑な”ちょうどよくする”営みである。いち手段としてそれが行われることはあっても、なにかを最大化/最小化するのみで創作物がよくなることはない。抽象化すると、創作とは、要素を設定して、それらをちょうどよくして、組み合わせを提示するという行為になる。
ここで、資産というパラメータをマキシマイズすることも、経営など複雑な手続きや判断を経る手段を用いるから、複数の要素をちょうどよくしなければいけないじゃないか、という話もあるが、最終的な評価バロメーターが明確かどうかという1点によって、本当に性質が大きく異なってくる。
一時期、おしゃれな音楽とはなにかを考えることにハマっていたが、「おしゃれ」も「音楽」も典型的なちょうどよくする行為の典型であるので、おしゃれな音楽、なんていうものは、もう複雑さの権化みたいな話であり、多少の傾向や、あるあるを述べることを除いて、典型的な、言語化困難な領域になるわけだ。おしゃれ度、みたいなものが統一スコアで表されて、その上下を比較できるなんてことは絶対にない。こういう服を着ればおしゃれになれます!とか、こうすればおしゃれな音楽が作れます!といった発言を本気でしている人がいたとしたら、残念なことに、その時点でその人は、単純化するために、なにかをうやむやにしてごまかしているため、悲しいことにもうおしゃれではないのである。
私的に創作をするということは、個人的に推奨される、ちょうどよい要素の組み合わせを探索することになる。この構造が、創作物と個人性の対応につながる。クリエイト・フォー・パーソナリティという言葉を自分が使うに至った理由もここにある。
例えば、村上春樹の小説に対して、「あらすじを書くとこんなにも短くて済む。ごちゃごちゃそれっぽく書いているだけで中身がない」みたいな批判をする人が存在するが、こういった物言いは、創作とは、要素をちょうどよくして、組み合わせを提示するものであるという前提を理解できていないといってよい。言葉を、個人的に推奨される、ちょうどよい要素の組み合わせとして配置して提示し、その言葉の配置のみで立ち上がるフィールがある。そのフィールを獲得するために、小説を書いたり読んだりする。情報伝達だけがテキストの役割であるのだったら、そもそも自然言語なんていう曖昧なものを用いないほうが良いとも言える。ストーリーのプロットの情報量の多寡はその結果に過ぎない。その組み合わせでした得られない感覚があり、それを模索する、それが我々がすべきことである。言葉の組み合わせで立ち上がった、言語化不可能なフィールこそが肝要である。ノット・フォー・ミーであったのか、それを捉えられていないのか、フィールを表現したり干渉したりすること自体に価値を見出していないのか、どのみちよい態度ではない。
要素を設定して、それらをちょうどよくして、組み合わせを提示する、という側面を持つ創作行為は、大半の人にとっては複雑すぎるからか、単純パラメータに落とし込みたいという欲望が発生する。売れているかどうか、再生数が多いかどうか、みたいな行為は、本来はちょうどよくする側のゲームを、無理矢理マキシマイズ/ミニマイズのゲームに持ち込もうという欲望の発現である。本来はそうではないものを、マキシマイズのゲームと解釈することはそもそもズレている。分かった上で、あえて数字を追求するならよい。しかしながら、そもそもの面白さはその複雑さにあることを意図的に無視するのは褒められた話ではない。いうならばおしゃれではない行為である。
ここでは、あえて、創作からおしゃれさを取り戻そう、という言い方をしたい。超複雑な”ちょうどよくする”営みを真面目にやることはおしゃれである。創作の複雑さから逃げないことがおしゃれさであり、個人性の発見につながる。それはクールなことである。

