The Blue Envelope #24
#C4P_demo
検討はずれ
中学までは野球をしていて、芸術の類はイキっているいけすかないものだと思っていた。加えて、歌うのが得意ではなかったのに、学校がやたら合唱に力を入れていて、音楽の授業もそればかりだったので、正直うんざりしていた。高校に入学したとき、音楽と美術のどちらかを選択しろ、と言われて美術を選んだ。中学での合唱のせいで学校での音楽の授業にいいイメージがなく、かつ美術のほうが楽そうだったからである。そこからだんだんと音楽やサブカルチャーに対する興味を自覚し出すが、これまでの態度に対する手のひら返しのようでどうも恥ずかしく、誰にもまともにその話をしないまま卒業した。
大学に入って、初めて自分のパソコンを手に入れた。検索履歴は音楽に関することばかりであり、ようやくというか、さすがにというか、自分が音楽に強い興味があることを受け入れた。とはいっても、もうすぐ20になるし、いまからはじめたところで遅すぎるような気がして、その欲望には見て見ぬふりをしていた。
が、いまや趣味も仕事も音楽である。ひとたび作曲という行為に手を出してからというもの、転げ落ちるように、もうそればかりをやっている。恐ろしいことに、つまらないと感じたことも、飽きたことも、本当にただの一度もない。ずっとおもしろい。
こうした経緯もあり、自分は自分の第一印象みたいなものを信用していない。こんなにもどハマりするようなものを、20年近く意図的にスルーしていたわけであるからだ。取捨選択の勘が悪すぎる。素直な心さえ持ち合わせていれば、もっと最短距離で音楽にたどり着けていたのか。
とはいってもである。「物心ついた頃から親がジャズのレコードをかけていて……」みたいな家庭を除くと、だいたいがそんな感じではないか。一体この世の何%の人間が、自身の適性を真剣に検討したことがあるだろう。創作分野に対してなんて特にそうである。
向き不向きのおおまかな方向性の検討を、だいたいの人は学校教育を通して実施することになる。足が速いから体育が好き、数学は意味わからないから嫌い、英語の先生が嫌いだから英語もなんか嫌。そのレベルの適当な検討の末、文系、理系などというさらに意味のわからない2択を選ばされたりするはめになったりして、あるいは学校なんて辞めてしまったりして、進路がなんとなく決定していく。
適当ではなく、意志を持って努力をしたとしても、すぐに適性がわかるわけではない。芸大入学を志して死ぬ気で予備校に通い、受験をしたが落ちてしまった、みたいなケースを考えても、はっきりわかるのは受験の適性がなかったという事実だけで、正直芸術分野そのものへの向き不向きは不明なままである。
職業選択の際などに、好き/嫌い-得意/不得意の四象限で考えてみましょう、みたいなことをやらされたりするが、自分の好き嫌いや得手不得手を自らが理解できているという前提が実に気に食わない。中学校の自分にそれをやらせたら、音楽なんてものは、迷うことなく、嫌いで、不得意のエリアに放り込まれる。そんなカスのワークの導きで、音楽を捨てさせられてはたまらない。
自分がいま音楽で生計を立てているのは、強い意志で道なき道を切り拓いた、みたいなものでは全くなく、なんならサイコロ振ったらなんか5回連続で1でたわ、すげーな、くらいの状態である。音楽をはじめるのがずいぶん遅かったことに対しても、後悔の類の感情はない。育った環境からすると、音楽に本格的に取り組むに至ったこと自体がおかしく、針の穴を通すようなまぐれの積み重ねでそうなっているだけだからだ。
しかしながら、音楽というオプションを、完全に捨ててしまっていたらと思うとゾッとするのである。改めて振り返ると、音楽への興味自体も、それを完全に放棄してしまうような結末も、その気配だけはずっとあったのだ。タイムマシンで過去に戻されたとしても、音楽をはじめることさえできれば、売れなかろうが、評価されなかろうが、そんなことはお構いなしに、絶対に後悔しない確信がある。はじめることさえできれば。
自分が、自分は何が好きで、何に興味があって、どんな人間なのかにやたらと執着するのには、こういった背景がある。なにか創作によって成功を掴む、みたいなストーリーも、それの再現にも興味がない理由もここにある。自分がなによりも減らしたいものは、創作をすべきだったはずの人間が、創作を手放す、ないしは、はじめることもなく距離を置き続けてしまうことである。なんとなく、直感で、嫌い&不得意のエリア配置したそれは、検討はずれである。せめて真ん中寄りに戻してくれないか。創作をすべきはずだった人間とはどんな人なのか、と考えれば考えるほど、そんなものは全員であるに違いないと強く感じてしまうのだ。

