The Blue Envelope #23
#C4P_demo
犬と猫は何が違う
あなたは犬と猫を見分けることができるだろうか。馬鹿にしているのか、と思う人もいるかもしれない質問であるが、実際問題、国内にいるそこらへんの犬と猫を連れてきて、どっちがどっちかを尋ねれば、ほぼ全員が正解すると思われる。さらにいうと、日本ではあまり見かけない、珍しい品種の犬や猫、異国の野犬や野良猫を連れてきても結果はそこまで変わらないだろう。要するに、アホみたいな話だが、我々は犬と猫を区別できるのだ。
じゃあ、犬と猫の違いとはなんなのだろうか。哺乳類で、4本足で歩く。尻尾が1つ生えていて、耳が2つある。こうしてみると、まあ大体同じである。犬はワンと鳴き、猫はニャーと鳴くんですという話もあるが、犬と猫を見分ける上で、「ちょっと鳴き声を聞かないととどっちがどっちかわかんないすね……」ということにはならないであろう。犬は忠実で、猫は気まま、とか、犬は舌を出しがちである、とかそういうのもあるが、生活様式を確認しなくても、口を閉じていても、我々は犬と猫を区別できる。チワワなどは結構猫っぽいフォルムをしているが、チワワを猫と勘違いする人はあまりいない。チワワは犬であるし、みんなそう思っている。
客観的な事実として、厳密に犬と猫の区別をすることは可能である。例えば毛根や唾液からDNAを取ってきて、その配列を解析したり、染色体の数を数えれば良い。成獣の総歯数も異なる。猫には独立した鎖骨があるが、犬にはない。肉球の縁取りも異なるらしい。しかし、一般人にはDNAを分析する設備も技術もないし、歯の数を見れば犬猫が区別できることを知っている人なんてどれくらいいるのだろうか。
ここで、あえて極端なルールベースのシステムを想像してみよう。犬と猫の区別をコンピュータにさせたいとして、「染色体は78本か?」「成獣の総歯数は42本か?」「鎖骨は独立しているか?」「掌球の葉数は?」といった生物学パラメータを順番にチェックしていく、カッチカチの if 分岐プログラムを組むことになるだろう。こうしたルールが事前に入力され、判断に必要な情報をすべて取得できるなら、犬猫クイズを外すことはないだろう。だが当然ながら、そんなパラメータを日常的に測ることは現実的ではないし、「どの項目をどんな基準で見ればよいか」を、先に人間が厳密に知っておく必要がある。
対照的に、我々はそういった生物学的な指標も数値も知ったこっちゃないのに、犬と猫をかなりの精度で見分けている。「犬か猫かわかんねえからちょっと歯ぁ見てきますわ!」という奴がいたら普通に専門家の類いであろう。普段は、耳の形や顔つき、体のバランス、歩き方、毛並みの印象といった、言語化しきれない視覚情報のかたまりから、「なんとなく」正しい判断をしている。DNA 本数や歯の数のような、教科書的に定義されたパラメータを明示的に参照しなくても、パターンとして世界を認識できる。そして、こういった判断プロセスはかなり人間らしい手続きと言える。
他方、いわゆる機械学習系のAIが、従来のルールベースなプログラムと違っているのは、こういった、必要な情報を元に分類するようなフローチャートを人間が指示することなく、犬と猫を見分けることができることにある。現在よく使われるディープラーニング系のモデルでは、人間にとってはほぼブラックボックスに見える。分類させたプログラマ自身にすら、何を元に分類したかが示されないまま、かなりの高精度で犬と猫を見分けられてしまうのだ。ここに、AIの優れた点と、ややこしさと、人間的だと感じられる部分が同居している。ある種の「よくわからないけど、ちゃんと当ててくる」感じに、人間らしさが感じられるのである。
上記の事実は、音楽をはじめとする、複雑な要素を持った多元的なものを鑑賞する上で非常に参考になる。犬と猫を判別するという単純に思える行為が、内部的には実はめちゃくちゃ複雑な要素を多角的に用いていて、実はすごいことであるからだ。なんかよくわからないが、かなりの高精度で区別できる、というのが人間の機能として備わっていて、そしてこれが結構すごい。複雑さに相対する際のツールとして非常によく機能する。だから、それを積極的に活用すべきなのだ。
例として、テクノとハウスの違いを考えてみよう。どちらもダンスミュージックで、1小節にキックが等間隔に4回鳴る。早いものも遅いものもあるが、平均を取るとBPMは130前後に収まる。素人目に見ても、玄人目に見ても、まあだいたい同じようなもん、といえばそうである。だいたい同じだが、でも結構違う。結構違うからこそ、ジャンル名が付き、分類されている。じゃあテクノとハウスは何が違うのか。残念なことに、犬猫における染色体のような、ここを見れば一発で決まる、みたいな決定的な客観パラメータはない。
しかし、ある程度ダンスミュージックのリスニング経験がある人間を何人か集めて、なんらかのハウスかテクノかの曲を複数聴かせて分類してもらうと、多少のブレはあれど、回答は概ね一致する。かくのごとく、なんかよくわからないが、かなりの高精度で区別できるわけだ。判断の根拠を尋ねると、陰気臭い方がテクノですよ、とか、ハッピーな感じがするのはハウスですよ、とか、硬い方がテクノですよ、とか、土っぽい方がハウスですよ、とか、歴史や文脈でいうとこうですよ、とかいったふんわりした説明がつけられるだろうが、犬猫のDNAに対応するようなものはない。対象はいつだって複雑で多元的で、曖昧である。
よく、「音楽を、ジャンルみたいな型にはめて考えるのはナンセンスですよ」という意見を見かける。この裏には、個性的なものを既存の型で言い表すのはよくないんじゃないか、くらいの含みがある。言いたいことはわかるが、実はジャンル分けというのは、表面的には単純なラベル付けの裏にかなり複雑な解析プロセスが走っており、実は単純化とはむしろ逆の、複雑さに挑む正当な営みなのである。我々が犬なのか猫なのかを見分けることができるのは、人生で、あらゆる生物を、犬を、猫を見まくった、複雑な経験知によるものである。新しい音楽をジャンルのラベリングから考えるのは、新しさから目を背け、従来の価値観に押し込めるようなものではない。
それでは、ジャンル間の違いがよくわからない人はどうやってその貼り付けるラベルを獲得すれば良いのだろうか。答えはシンプルである。テクノとハウスの違いが知りたければ、テクノとハウスを分類できる人を横に置いて、テクノハウス当てゲームを1000問やればいい。そのうち、なんかよくわからないが、かなりの高精度で区別できるようになる。アウトプットは2択なので単純だが、内部手続きは実に入り組んでいて、深遠である。にもかかわらず、なんか知らん間に、できるようになるのだ。自分はこれをよく自転車に例える。複雑な身体操作を持ってして自転車を漕ぐわけであるが、ある程度の練習量を確保すると、なんか知らん間に乗れるようになってしまい、なぜ乗れるのかもよく説明できない。
逆に、テクノとハウスを分類できてないうちは、複雑さをハンドリングするに値するインプットが不足している状態であると言っても良いだろう。複雑さを取り扱うためには、我々が犬猫でそうしたように、かなりの物量が必要なのである。全ての動物に関わる記憶を消去され、「柴犬は犬」、「チーターは猫」の2つだけ教わった状態でブルドッグを目の当たりにしたら、得体の知れない生き物と思うかも知れない。学習が足りていない状態である。しかし、動物の知識はそのままに、ブルドッグに関わる記憶のみを全て消された状態でブルドッグに出会った際は、自信を持って犬やな、と思うことができる。こういった理由で、音楽を理解するためにはかなりの音楽を聴き、経験データの物量を確保することがめちゃくちゃ重要であることがわかる。複雑な物事に相対する上で、物量を確保せずに、少ないインプットのまま理屈だけ積もうとするのは筋が悪いと言えよう。
あらゆる分野でももちろんそうなのであるが、芸術分野は、輪にかけて、少ないインプットでの逐次学習に不向きである。音楽をたいして聴いていない状態で、芸大和声の本を読み進めても学習効果はかなり低いであろう。動物を見たことがないのに、犬の特徴を学んでも意味がない。キツネや、馬との違いがわからないからである。動物園を三周したのちに、これが犬です、と言われて初めて、「これが犬か!」となる。
個人的には、あらゆる複雑な要素を持った多元的なものに挑む上で、犬猫分類やハウステクノ当てのような手続きを踏むべきと考えている。なんかよくわからないが、高精度で区別できるという人間の高級な機能をふんだんに活用できるからだ。
そうした理由で、自身の個人性を探索し、向き合う際にも同様のプロセスを導入すべきということを主張したい。自分という個人性を持った主体から、楽曲が生み出された。ここだけ見てもなにもわからない。別の主体から生み出された楽曲、という他の主体と作品のペアを大量に見て、その大量なインプットを持ってして、自身とその作品を相対化する必要があるのだ。十分なペアの物量を確保し、ラベル付けを繰り返すことで、”なんかよくわからないが、なんとなくわかる”状態に辿り着くことができるのだ。楽曲を相対的に理解したければ楽曲を聴きまくればいい。それだけにとどまらず、楽曲から個人性を探索するには楽曲-個人のペアのインプットが必要であると言うのが、現状の自分の考えである。
いま自分は、日本でも類を見ないほど、初心者が作った楽曲と、その作り手のペアのセットを意識的に見るような催しを繰り返している。平均よりははるかにインプットがある状態である。とはいっても、正直、現状なにが分かったかというとなにも分かっていない。が、このまま続けていれば、大筋は自分の思う正しい方向に進めていると言う実感が、なんかよくわからないが、なんとなくわかっている気がしているのだ。

