The Blue Envelope #20
チーティング
#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
チーティング
サッカーでは、キーパー以外が手を使うと反則である。バスケットボールではボールを持って3歩以上歩いてはいけない。将棋では歩を同じ列に2枚置いてはいけないし、インサイダー情報を持って株式の取引をしてはいけない。ポーカーで相手の手札を見るなんてもってのほかである。なぜならば、ルールでそう決めたからだ。当たり前だが、ボールを手で扱うこと自体は全く持って悪いことではない。なんならとても楽しく、実に奥の深い行為である。が、そんなことは関係なく、サッカーではダメである。ダメというルールだからだ。
これらの違反行為は、そのルールにおいてのゲームバランスを崩壊させる。サッカーの試合で、ラグビーのようにボールを抱えて走ってゴールに突撃する人間が現れたとして、ルール遵法者にはそいつを止める方法がない。ズルをすれば勝つのは簡単である。国の金利の上げ下げの意思決定に関わる人間が、もし株式の売買を自由にできたならば、ポーカーで相手の手札を盗み見れるならば、ほぼ負け越すことはないだろう。
ズルや違反が露骨に有利として機能するのは、ルール、ないしは勝利条件が明確であるときだ。ルールとはつまるところ制限であるから、制限を取っ払えば勝てる。適切な制限を持ってして、見事なバランスがもたらされているものが優れたゲームである。デザインされた均衡のもとで争うからこそ価値があり、ルールを破ると、そのバランスが崩壊し、一瞬にして、そもそもやる意味がなくなるのだ。
一方、創作活動においてのズルとはなんなのだろうか。パッと思いつくのは、倫理に反する、暴力を伴う、公序良俗に反する、などといった類のものか、盗作などの著作権関連のものである。これらは、雑に抽象化すると、人に迷惑をかけてはダメですよ、と言っているだけとも取れる。仮に、他人の人権を侵害し、法を犯し、人の全ての著作物を我が物顔で自由に用いてよいので、優れた創作物を作ってください、といわれたとて、「ズルしていいなら簡単ですよ!」と、再現性を持って優れたアウトプットが出せるだろうか。
あらゆるチーティングを許可されたとしても、自分は良い曲を作れるとは到底思えない。ズルが明確に有利に働かないということから、創作行為というのは、ゲームのルールが明確ではなく、評価基準が多元的で不明瞭であることがわかる。スポーツやゲームのように明確なルールがあり、それを破ることと、創作における違反(法・倫理違反)は、そもそも全く構造が異なっているのだ。
この、”評価基準が多元的で不明瞭である”という部分が、創作をエキサイティングなものにしている。ボクシングではパンチのみを用いて、相手を倒したら勝ちである。じゃあ創作行為において、創作物はどうなったら”よく”なるのであろう?
創作物を”よく”するための行為は、2つのステップにおいて実現されると考えている。1つ目は、創作というぼんやりした多元要素に対して、定性的であれ、定量的であれ、自ら”よい”状態を定義すること、もう1つは、それに近づくための努力をすることである。2つの境界は実にファジーであるが、分けて考えるべきであると考えている。C4C的な態度というのは、前者を定量的な自明なものに設定することで、後者に注力することである。C4Pを提唱する上で、自分は前者に注目したい。
自ら”よい”状態を定義する、ことから始まるという事実は、あなた自身がそれをやる意味があることを示す。あなたが定めた”よい”状態を知るのはあなただけであるから、あなた自身が創作をする価値がある。それは絶対に他人に毀損されることはない。
なんなら作らなくてもいい。鑑賞というのは、自らが定めた”よさ”のものさしを、他者の創作物にあてがう行為に他ならない、多数の創作物の鑑賞を通して、自ら定義した”よい”状態になるべく近いものを探し、選びとる行為も、逆に、自分の心を動かされた作品群から自らの思う”よい”状態がなんなのかに想いを巡らせるのも、自ら”よい”状態を定義し、それに近づくという2つのステップを交互に踏むわけであるから、創作行為をするのとほぼ同義である。
よく、「世の中には優れたもので溢れているから、わざわざ自分で作らなくていい」といった意見を聞くが、これは客観的な”よい”状態を自明なものとしすぎている。そんなものはない。客観的に定義された”よい”状態を選択して適応しているだけか、あるいは、あなたの定義した指標が、客観的な”よい”状態として機能するに足る場合もあるというだけである。
世の中は、どうも2つのステップのうちの前者、すなわち”よさ”の自らによる定義が軽視されているような気がしている。AI利用への行きすぎた糾弾や、過剰なパクリ判定、サンプリングなどへの無理解なども、結局、創作においても、ズルを持ってして明確な有利が取れるという考えが根にあると言える。ズルをして、創作物がよくなることはない。百歩譲って創作物そのものの外形的な出来が良く見えることはあるかもしれないが、それは権利や信頼を毀損することで、他人の定義した”よさ”を踏み台にしているだけで、言うなれば、迷惑をかけているか、嘘をついているだけである。
さらにいうと、あなたが定めた”よい”状態が、いわゆる「言語化」できるものだとは思わないほうがいい。自然言語をもってして、迫ることはできても、そのものズバリで”よい”状態を指し示すことはできない。他人にそれを提示するには、それになるべく近い創作物をあなたが作るか、他人の作品をキュレーションして、その”よさ”を間接的に立ち上がらせるかのいずれかでしかなしえない。このテキストがそうであるように、もちろん言語も活用するが、あくまで補助にすぎない。だから自分は曲を作らないといけないし、DJをしないといけないのだ。
自ら”よい”状態を決める。あなたの営みである。あなたにしかできない。手段は問われない。

