#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
プロトC4P(前編)
クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P)とクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality / C4Q)の二項で考える、というアイディアは、ここ5年くらいの様々な実践の果てに、急に思いついたもので、ここに辿り着くまでに、かなりの変遷を経ている。もう少し正確にいうと、かつてのアプローチではこぼれ落ちていた部分があり、クリアにするために試行錯誤していて、ようやく暫定案が出せたという感じである。
全ての始まりは10年前に遡る。友人のトラックメイカーであるPARKGOLFとNinja Drinks Wineが言い出した元ネタ不明の”満足タイプ vs 名誉タイプ”のカテゴリ分け(*注)である。ざっくり説明すると、満足タイプは、自己の満足を糧に活動する。自分でうまくいったかどうかを判断し、満足できればOKという考え方である。名誉タイプは、オリコンで何位、とか売り上げが何枚、とかMステに出演した、といった客観評価とそれに伴う名誉を重視するスタンスを指す。これで、自分や、他人が満足タイプ/名誉タイプのどちらに該当するかを考えるという遊びである。完全に分けられないので、どちらかというとどっち寄りか、という話でしかないのだが、PARKGOLFは満足タイプで、Ninjaくんは名誉タイプであるという自認で、良し悪しではなく、わかった上で頑張ろうみたいな話であった。これがC4P/C4Qアイデアのプロトタイプ1である。何の根拠もないが、この分類をめちゃくちゃ重要であると決めつけて、今日に至るまでずっと考えている。
自分はこの分類が、そのまま使うには定義が曖昧であるとして、”成果物の評価視点が主観か客観か”という話である、と整理した。これがプロトタイプ2である。
この視点の目的は、作品を作りました。そして、これの良し悪しを決めるのは誰ですか?となったときに、あやふやだと色々と都合が悪いので、ぼんやり答えを持っておくといいんじゃないか、という提言がベースにある。お年寄りが余暇の活動として趣味でピアノを習うのと、とにかく100万回以上再生されたい、みたいな人の求めるものは全く異なる。前者は主観での楽しみが目的で、後者は客観的な指標の向上が目的である。どちらを求めるのかの認識が曖昧だとうまくいかないことが多いですよ、という自己啓発的な話と、人を集めて何かをする上で一緒くたに取り扱うのは難しく、便宜上分ける必要があった、という2点が、この視点を導入する主な動機であった。とにかく、基準が他者か自分かどちらにあるのかの自覚が、活動の助けになると考えたのだ。
神保町の美学校でやっているサウンドシェアというワークショップで、会の意義を説明する上で「この会は競争や技術上達は目的にはないよ、相対的な自己理解のためにあるんだよ」という導入をあの手この手の切り口でしていたが、説明の際に用いる用語をずっと決めかねていて、京都大学のメディア文化学にて講義をした頃から「自分領域/市場領域」という言葉を使いはじめ、しっくりきたので、しばらくはこれでいこう、となってしばらく安定していたのが2024年頃である。
京都大学での講義の要点をまとめると、自分が好きなものはなにかを考えることがめちゃくちゃ重要であるということ、それと資本主義下での価値は全く関係がないよ、という内容である。自分のやりたいことが不運にも他人の賞賛も得れず、社会的に価値がなく、金も稼げない、なんてことは全然あるし、その上で、好きなことに向き合う時間をゼロにすべきではなく、いい感じの方法を見つけるといいんじゃないですか、というメッセージがメインで、「好きなことして生きていく」とか、「好き-嫌い/得意-不得意の4象限で好き&得意を狙おう」みたいな考えのアンチテーゼとしての主張であった。
”成果物の評価視点が主観か客観か”という視点で、”自分領域/市場領域”に分け論じる、というのがそこまで筋が悪いとは思っていないものの、このやり方には、明確な弱点が1つあった。視点の話しかしておらず、価値基準に対しての提言が弱いのだ。自分の主張はほぼ「市場領域もいいけど、自分領域も大事にしようね」という着地になるわけであるが、それを受け、「昨日の自分を越えればいい」という解釈をする人が結構出てしまうのである。
具体例を出すと、「金メダルを取ろう!」と思っていた人が、自分領域/市場領域の話を受けて「自己ベストを出そう、と考えればいいんですね!」と解釈してしまうのだ。人との比較からは解放できたが、価値基準が変わっていない。好き嫌いというのは複合的で複雑なものであるし、創作物の良し悪しというのは単一パラメータで計りようがないのが魅力であるから、自分の思う”良さ”を発見しよう、という話をしたいのに、人と比べない、ということだけを汲み取って、「前回の動画よりも再生数が上がりました。これをモチベーションに続けます。他人とは比べません」みたいになっても、結局客観的な指標の上昇しか見れていない。言いたいことの半分しか伝わっていないのだが、これが多発した。
”満足タイプ vs 名誉タイプ”でも同じである。自己の満足を糧に活動する、となったときに、その満足指標が客観指標だと意味がないのだ。要するに、”満足/名誉”も”自分領域/市場領域”も成果なき創作をやるべき理由を全く説明できていない。「筋トレをしました。人と比べずに、自分の筋肉量が増えるのが嬉しいのでやっています!」という姿勢は素晴らしいが、これだと片手落ちなのだ。他者との比較から解放される、ということに加えて、一般的に言われるような成果の有無からの解放も成し遂げたい。極論をいうと、筋肉のつかない筋トレを継続させないといけないということになる。そのために、もっと良い概念を立てないといけなかったのだ。
京都大学での講義の際に、「今振り返って、学生時代にしておけば良かったことはありますか?」と問われ、「音楽やってることを隠さずに、堂々としてればよかったなーと思います」と回答したのだが、何も考えずに口をついたこれが、妙にずっと頭に残っていた。この回答は紛れもない本心で、なんというか自分の言いたいことの全てを言い表していると感じたのである。このやりとりが、新概念の提唱の明確なきっかけになったのだ。昔の自分は音楽をやっていることを人に話すのが恥ずかしかったが、これは、成果主義に囚われていて、好きでやっているが、成果も出ていないことを人にいうのを格好が悪いと考えていたからである。この、かつての自分が恥じていた状態を、今は堂々として然るべきだと思っている。正しいという確信はあるのに、その理由を説明できない!悔しい!
タイムマシンで過去に戻って、20歳の有村に「もっと堂々としろ」と説得したい。しかし、そいつは成果主義を内面化していて、評価もされず、客観的にクオリティの低い音楽を作っているという事実を肯定できない。これを打破する概念を提唱できたとき、昔のおれを成仏させることができる。ここでの説得の文言を考えることが、自分にとってのミッションとなった。そして、結果としてそれは「なんのために創作をするか?」を考えることとほぼ同義であった。
元々の名誉タイプに当たる部分は大きな修正の必要がない。市場における、客観的な評価や資本的な成果に言葉を当てるだけだからだ。さらにいうと、「昨日の自分を超える」的な考え方も含む言葉であれば良い。ひとまずこれを”クオリティ第一主義”とした。”クオリティ第一主義”の対になる、満足タイプに該当する概念を定めることで、成果なき創作に意味を与えたい。ここでいう満足とは何か?おれは曲を作ってどんな嬉しいことがあった?(後編に続く)
*注:この元ネタの出典を10年以上探しています。心当たりがある方はご教授いただけると嬉しいです。満足タイプ/名誉タイプの2つではなく、もう1つくらいあった気もします。