#ITBS_textと見出しがついていたらおれが書きたいだけのなんか適当な文章で、#C4P_demoという見出しがついていたら文フリ用原稿の叩き台だと思ってください。よろしくお願いします。
#C4P_demo
アンチ”創作の苦しみ”
”創作の苦しみ”みたいな話題は、なんでか知らないがやたら語られがちである。一方、自分は創作行為が本質的に苦しみを伴うものだと思っていない。
創作のプロセスを、ざっくり乱暴に構想期と具現期の2つに分けてみる。前者はアイディアと方向性を決定する段階であり、実際にそれを具体的なアウトプットへ落とし込む実装のフェーズが後者であるとする。絵だったら、どんな手法でなにを描くかを決めるのが構想期、キャンバスを買ってきて、画材を駆使して実際に描くのが具現期。映画だったらテーマや核となるプロットを決めるのが構想期、脚本を完成させたり、スタッフを集めて、撮影や編集を行って作品にするのが具現期である。2つが相互にフィードバックし合ってぐるぐる回る場合がほとんどであるから、きっちり分けるのは難しいのは承知の上で、一旦このように定義する。
ここで、具現期はもう言ってしまえば工数が設定できるようなものであるから、一般的な労働となんらかわりがない。飲食店をやる限りは料理をして、使った皿は全て洗わないといけない。いくら料理が好きだったとしても、料理そのものも、それに付帯する雑務も、フィジカルな動作を伴う限り、疲れるし、しんどい。他の創作においてもそうで、具体的な作業を要求する工程は必ず存在する。しない限りは絶対に終わらないので、苦しいといえばそうである。この文章だって好きで望んで書いているが、実際に書くのはめんどうであることは認めざるを得ない。が、工数を投入し、手を動かしさえすれば終わる肉体的な作業でしかないので、創作特有の苦しさがあるかと言われると、それは一般的な働く大変さとさして差はない。創作だけを特段苦しいものにするユニーク要素にはどうもなりそうにない。
じゃあ構想期はどうだろうか。コンセプトを決定し具体作業に落とし込むまではどちらかというと頭脳労働っぽい営みである。ここで想定される困難としては、アイデアが浮かばない、といったものか、構想はしたが、実現するに足る能力やリソースがありそうにない、などというパターンが考えられる。創作を余暇と捉え、エッセンシャルなものではないとすると、極論思いつかなければそもそもはじめなければ良い。能力不足に関しては鍛錬が要求されるわけであるが、トレーニングのプロセスがしんどいのもまた当然で、創作特有の苦しみとは言い難い。時間や金などのリソース不足で願いが実現できないなんて、言ってしまえば人生なんて常にそうである。
プロセスだけをみると、一般的な人間の営為の中で創作行為にだけ見られる特異な苦しみというのはあまり見当たらない。珍しい点を挙げるとするならば、構想期で詰まったときに、それを解消する明確な具体アプローチが存在しないことである。
どれだけ努力をしたとしても、なにも思いつかない時は本当に思いつかない。投じたあらゆるコストに対しての成果物の達成速度や質に明確な相関がないので、見積もりが難しい。ここが、創作の苦しみを生む様々なトリガーになっていると自分は見ている。要するに、強制的に構想期の完了を強いられたり、あるレベル以上の質を期待されるのがキツいということになる。投じた努力に対しての成果が計算できないという性質が前提にあるくせに、それを期待されるような要素が存在する場合に創作は苦しくなる。そして大体の創作活動はこういった構造を伴っている。
仕事としてやっている場合は、締切が設定され、想定される質のノルマがあり、売上が立つことを期待される。趣味でやるにしても、貴重な可処分所得/時間を投入するわけであるから、有限のリソース内での成果が期待される。他人にどう見られるか、どのような外的評価のストレスもあるし、自らの、自らに対する期待なども想像以上に大きい。対象はどうあれ、想定成果を設定し、それをアンダーしているという状態が苦しさの正体である。なんでこんな話を持ち出したかというと、結局これはクリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality / C4Q)イデオロギーの内面化が原因であると考えているからである。 極端な状態として、常にドームクラスのツアーをやっているミュージシャンなどがわかりやすい。規模が大きくなり、ステークホルダーがあまりに多くなってしまった人間は、厳密にはできるはずのない質保証をして、莫大な人数を食わせることを強いられているわけである。自分が止まったらみんな路頭に迷ってしまう。質的要求水準だけが青天井に上昇し、並のクオリティでは文句を言われるようになり、圧倒的な感動の提供を求められる。そりゃあ常人には務まらないし、頭もおかしくなるというものである。
はじめに「アイディアが湧かなければやらなければいい」といった旨の乱暴なことを書いたが、これははクリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality / C4P) 文脈での理想状態の話をしている。アイディア創出コストと成果の相関が読めないまま、外部/内部から“納期・質”を期待されるときに苦しみが生まれるのであれば、「質を保証せよ」という構造的圧力を取り除けば良い。そのためには“創作 = 常に市場流通させる行為”という過剰な思い込みから自らを解放すること、”自己評価は質指標でなされるべき”という呪いを解くことの2つが肝心である。もちろん完全に取り除くことはできないが、想像以上に思い込みでしかない領域は大きい。それぞれの立場で、必要十分な分の苦しみだけを捉えて、それを乗り越えればよい。
つまるところ、創作が苦しい、とのたまう人々は、クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality / C4Q)を内面化しすぎていないか、という話である。質保証という荷重を降ろすと、残る負荷は能力の鍛錬と具現期の実作業量だけで、それは創作固有の痛みではなく、他の一般的な人間の営為と同じである。別に創作特有の苦しみでもなんでもないものを、まるでそうだと見せかけて、特別な人間だけに課された困難、みたいなストーリーで自己陶酔するのなんてもってのほかである。
創作固有の苦しみを生むのはできもしない質保証を強いられる構造であるのではないか、というのがここで言いたいことである。不必要な分まで無理に抱える必要はないでしょう。そんなことより創作固有の喜びを回収した方がいいのは明らかであるから、C4Pイデオロギーの下、楽しくやろうじゃないか。残念ながら、仕事でやってる人は、計算できるはずもない質を保証する矛盾を抱えていますので、なんとか頑張りましょうね。